11月14日:神の心は?聖なる戦い⑤

メッセージ

YOUTUBEにより詳しい動画と音声があります。

神の愛と義 ①ノアの箱舟

これまでは私たちの事について見てきましたが、今回は主がして下さったことを見ていきましょう。
先ずはノアの時代です。

神は裁きを下す前に人々を救おうとされました。しかし、結局その時代の人で主に聞き従い、箱舟に入ったのはノアとその家族、8人だけでした。
従わなかった人々は死に、下のシェオール(ハデース)へ行くことになりました。

神の愛と義 ②ロトの時代のソドムとゴモラ

アブラハムの甥、ロトが住んだ町は神の前に悪を行っていました。
神の怒りが達したとき、火と硫黄の刑罰が下されましたが、その前にロトの家族は救われました。
ロトの妻だけは、決して町を振り返ってはいけないとされた言いつけに背き、振り返ったために塩の柱となってしまいましたが…。

神の愛と義 ③ヨナの時代のニネベ

アッシリアという大国の首都、ニネベに神の怒りが下されようとしていました。
当時、アッシリアは野蛮で残酷極まりない民族でした。周辺の多くの国が、彼らの残虐さに苦しめられました。

しかし、そんなアッシリアの首都に対して神は、まずヨナを遣わして警告をして下さったのです。
その結果思い直した彼らは、悪の道から立ち返る努力をしました。それをご覧になった神は、彼らに下すと言われていた裁きを思い止まられたのです。
『立ち返る』と『思い直す』は同じ言葉です。

神の心を受け止める

大人の罪の巻き添えとなって、一緒に死んでしまった子供たちはどうなるのでしょうか?一緒に『下のシェオール』行きでしょうか。
いいえ、右も左もわきまえない子供たちは、『上のシェオール(アブラハムの懐)』へ行くことができます。

ニネベの人たちは思い直しました。神に立ち返ったので滅ぼされなかったのです。
ヨナは憎いニネベが滅ぼされることを内心望んでいましたので、もちろんそうなることを期待して待っていたのですが、彼らは助かります。

まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえもしない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。

ヨナ4:11

ヨナは納得いかなかったようです。
私たちはどうでしょうか、憎い相手に裁きが下されなかったとき、神のみ心を受け止めることが出来るでしょうか?

今日のニネベ

ヨナが警告したのはBC783頃です。
彼らは滅ぼされるのを免れたのですが、ついにBC612に陥落してしまいました。一度神に立ち返った彼らは、その後また堕落してしまったのです。
ニネベの町の跡は残っていましたが、2017年ISISの攻撃によって遺跡までも破壊されてしまいました。

しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
キリスト・イエスの信実を根拠とする神の義であって、それはすべての人に、すなわち、信頼するすべての人に与えられ、何の差別もありません。
というのはすべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉に達していないのです。

ローマ3:21~23(笠原訳)

これは『原罪』のことではありません。『自分の罪』のことです。
私たちは自分自身の意思で、神の御心のど真ん中から背くことをしてしまう。なので、神の栄誉に達することが出来ないのです。

神の恵みにより、イエス・キリストの中にあって身代わりの贖いのゆえに、ただで義と認められるのです。
神は、イエスの血潮の中に、イエスの信実を通して、キリスト・イエスを『贖いの蓋』として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義です。

ローマ3:24~25(笠原訳)

贖いの蓋、とは至聖所にある契約の箱の上にある蓋のことです。
祭司は贖いの動物の血を携えて至聖所へ入り、契約の箱の上に血を注ぐことで、神の怒りが宥められたのです。

今や、イエス・キリストの血潮が、宥めの捧げものとして注がれたのです。

というのは、今までに犯されてきた数々の罪を神の寛容(忍耐)の中に、見逃してこられたからです。
それが、今の時に明らかにされたご自身の義であり、神ご自身が義であり、また、イエスの信実を根拠とする者義と認め宣言するためなのです。

ローマ3:25~26

更にローマ人への手紙9章には、滅ぼされるはずの怒りの器を、神が豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとあります。
この忍耐は、能動的な忍耐です。
不屈の精神をもって忍耐し続ける!という感じです。 

今のこの世界をは、人権を無視されたり子供の命まで危険に晒される大変な時代です。神がご介入される日も近いのかなと思います。
しかし同時に、その時を伸ばし、忍耐されているようにも思えます。

神の忍耐の極限

 信頼の創始者であり、完成者でイエスから目を離さないで、忍耐をもって走り続けよう。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

へブル12:2~3

私たちも、神の忍耐を思い、十字架の先にある私たちの救いをイエスは喜びとしてくださいました。今の大変な時代ですが、私たちもそうしていきたいと思います。

私たち罪人の反抗を忍ばれた方、その方が、私たちの信頼の創始者です。
イエス様から目を離さないようにして、今の時代、聖なる戦いを生きていきたいです。そして、まだ主イエスを信じていない方々のために、神が忍耐しておられるこの時に、祈り、また何ができるか考えていきましょう。

コメント