10月3日:死後にも確かな希望-死後の世界⑥-

メッセージ

たとえ世界がどのように困難な時代に変わったとしも、私たちの生活が圧迫されても、いつでも希望を持って生きていけるように、天地の創り主の大きな助けがあります。それは、現在から始まり、死後、そして、未来へと続く希望です。

今まで、お話ししてきましたように、死で終わりではない。
霊魂は永遠であり、希望と喜びの人生を今から送るか、苦しみと絶望の人生と未来を過ごすかは、今決められます。
今回は、「希望」を中心に話させていただきます。

YOUTUBEより詳しい動画と音声がご覧になれます。

イエスのもとへ!

パウロは石打の刑に遭い、体のままか、霊魂のままか分からぬままに第三の天へ行った経験があります。
パウロが獄中で書いたⅠピリピ人への手紙には、キリストともにいることと、肉体において生きていることとの板挟みになっていると言っています。

・世を去って…出発して
これは死ぬ時ではありません。もはや私たちは「死」を通らないことは以前お話しました。
そしてアブラハムの懐へ行くのでもありません。 そこは、イエス・キリストの十字架が罪と死を無き者とする前に死んだ聖徒たちが行く場所でした。

私たちはこの世を出発して、どこへ行くのでしょう?
飛行場には様々な到着場所が書いてあると思いますが、私たちの到着する場所はもう決まっています!それは、イエス・キリストのそばなのです。
συν’(スーン)というギリシャ語は一般的に、二者が近くにある場合、一緒に移動する場合に使う言葉です。
パウロはこの世を出発して、イエスの傍らにいる方がはるかに勝っていると言うのです。

体験者は語る!-死を味わわない-

パウロの体験!

マタイ16章ではイエスが『死を味わわない人』がいると言っています。

来る…空中再臨、地上再臨の事ではありません。
人の子が、彼の王国の中に現れるのが、この「来る」という事です。

変貌の山で目撃

マルコとルカにある『変貌の山でのイエスの御変容』、これは死ぬ前に、イエスの地上再臨される際の姿を垣間見たということです。
イエスの栄光の姿です!

死後の世界の地獄体験は、眉唾!

臨死体験が世間をにぎわすことがあります。
地獄から生還した!地獄を見てきた!という人たちもいますが、本当にそれは地獄だったのでしょうか?

死のも、ハデースのも持っておられるのはイエスです。
もしハデースだとしても、行ったら誰も帰って来られないのです。

霊のからだ

Ⅰコリント15:44には、『御霊のからだ』と書いてあるところがあります。これは、『霊のからだ』です。
私たちは最終的にこの、霊のからだによみがえらされます。
モーセ、エリヤ、アブラハム、そしてラザロはまだ”栄光のからだ”ではないのではないでしょうか。

この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。

啓示録(黙示録)20:6

この時に”栄光のからだ”に変えられるのではないでしょうか。
眠っている…これは地上のからだについて言っています。地上のからだが第一の死に着くことを「眠る」と表現するのです。

2つの異なる変換

救われている人たちにも2種類います。すなわち、①救われた死者たち②救われた現在生きている者たち です。
まず①の救われた死者たちが「朽ちないもの」によみがえります。不死になるのです。
そして②の私たちが「変えられ」ます。
もしかしたら一瞬で、気付かないくらいの差かも知れませんが!?

これを書いている時点で、まだ啓示録はありません。したがってこのラッパは御使いのラッパではなく、御父からのラッパです。

死に打ち勝つ

死は誰しもに来る、自然なものだ、受け入れようという考えが私たち日本人にはあると思います。
しかし、死は自然な在り方ではありません!これは、罪の結果なのです。

ヨハネ11:25-26は、ラザロを亡くした姉妹、マリアとマルタにイエスが掛けた言葉です。
「死んでも生きる」、これはラザロの事でしょう。
そして「生きていて私を信頼する者」、私たちは今も未来も永遠に、死を味わうことが無いと言われました。

大事な単語に、ギリシャ語 εἰς (エイス)があります。
これはある運動を表す動詞とともに使われます。

どういう行動でしょうか?
『信頼』する、ということです。
信頼は概念ではありません!行動なのです!!

あなたは、神を唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。

ヤコブ2:19

ヤコブの手紙には、悪霊どもも神を信じているとあります。
先週お話した「信仰」と「信頼」の違いがここからもお分かり頂けると思います。
知識のみ、知的同意のみは、ただの信仰です。悪霊も持っています。しかし悪霊が神を信じているからと言って、救われているでしょうか

勿論救われていません。
イエス・キリストは救い主なんだと知っているだけではダメなのです。
それを自分の事として、信頼しなければ行動したことになりません

椅子があったとします。
あなたは座りますが、その時に全体重を掛けられるでしょうか?
掛けられたら、それはその椅子に全面の信頼を置いているという事ですね。もし、潰れるかもしれないという恐怖、疑いがあったら腰を浮かすとか、足に力を入れているとか、そもそも座らないかも知れません。
100%イエスに掛けるか、掛けないか、その違いは大きいのです。

良い知らせの中核

聖書で『死者たち』と複数形になっている所は『ハデース』をさします。
ハデースからよみがえって下さったことが無ければ、私たちの罪の赦し、体の復活が保証されたと何処で分かるでしょうか?
復活こそが証拠です。

無罪となる土台

通常の訳は「義と認められるのです」となっていると思います。
これは、イエスの義が、私たちに転嫁されたという事です。

続くローマ人へ手紙では、バプテスマの意味が書いてあります。

バプテスマには、”浸される”、”一体になる”という意味があります。
何と一体になるのでしょうか?
キリストの死と復活に、一体化するのです。

いのちの歩みの継続

ローマ人への手紙7章には、私たちはキリストと結ばれるとあります。結婚です。
そして、神の為に実を結ぶ人生が始まるのです。

ローマ人への手紙8:11には聖霊の助けがあるとハッキリあります。

イエスを死者(たち=ハデース)の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって(のゆえに)、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。

ローマ人への手紙8:11(私訳)

死後にも確かな希望!

ローマ人への手紙10:9は、救いの方法、土台です。
当時の人々にとっての「主」は皇帝でした。皇帝の事を皆口々に「主(キュリオス)」と呼んでいたのです。すべての主権のトップだからです。
でも、本当の全てのトップはどなたでしょうか。

クリスチャンたちはイエス・キリストこそ主であると言って憚りませんでした。
十字架の救いはすべての救いなのです!主に信頼しましょう。

コメント