9月26日:信じるってなんだ

メッセージ

日本人にとって「信じる」、「信仰する」という言葉はとても重く感じるのではないでしょうか?!
ハードルが高い感じがします。
でも、聖書には「あなたの信仰があなたを救った」とか「イエス・キリストを信じる信仰」、「イエス・キリストを信じることによって」という言葉が沢山出て来るので、私にはとてもそんな「信仰心」が無い…と焦る人も多いのではないかと思います。
今回は『愛ってなんだ』に続き、”信じる”という言葉について考えます。
聖書の『翻訳の問題』についても触れたいと思います。

※音声と動画はYOUTUBEからどうぞ!

日本で宗教をイジれるわけ

中村光という方が描いている「聖☆おにいさん」という漫画が、日本では何年も前から流行っています。
フランスでも、『イエスとブッダの休日(Les Vacances de Jésus et Bouddha)』というタイトルでギャグ漫画として翻訳出版されています。受け入れられているんですね。
それはフランスという国の霊的状態を見れば分かります。

日本の宗教は、「信じない」宗教です。もっと言うと、「信じる必要のない」宗教なんです。
これは後ほどご説明します。

令和2年度に出されたの宗教年鑑によると、日本において神道と仏教を信じている人の合計は、日本の総人口以上にいます。
仮に半分だとしても、日本人の2人に1人以上が、何らかの宗教を信じているということです。
本当でしょうか?

信じる所のない神道

神道国際学会のHPには「神道とは何か」を説明するページがあるんですが、それをまとめると、

・原点は古来の民間信仰と儀礼の複合体。(動物や植物その他生命のないもの、例えば岩や滝にまでも神や神聖なものの存在を認めるいわゆるアニミズム(精霊信仰)的な宗教)
・宗教的体系は成していない。
・教祖も、経典も、教団もない。
・氏子は信者や教会員ではない。

宗教というか、精神文化と言った方が良い感じです。

檀家も、自宗の事を分かっていない

定期的に自宗の調査をしている曹洞宗を見ると、盂蘭盆会や春秋の彼岸参りといった先祖供養の行事には比較的、檀家の参加度が高いにもかかわらず、涅槃会、座禅会といった曹洞宗の教えの根幹に関わる行事の参加率は低いのだそうです。

「葬儀はなんのために行うのか」というアンケートには「故人を成仏させるため」という回答が1番多い。

曹洞宗の信徒にとって成仏とは「仏の弟子になる事」なので、これが曹洞宗の掲げる葬儀の意味なのですが、「死んだ人が最終的にどのような存在になるのか」についても、先祖になる、とか、ホトケになる分からないという回答が多いのです。

要するにこれで何が分かるかというと、神道は地域というコミュニティ単位、仏教は寺という家単位で関わるものなのであって、信仰がある無いには全く関係ないのです。
勿論、中には心から信心されている方もおられると思いますが、そもそも総檀家制度は江戸時代に、キリシタンでないことを証明する為、皆がどこかの寺の檀家になる必要があったただけですので、大半の日本人は教えに共鳴して信仰の対象を選んでいるわけではないという事です。

「信じる」必要はないというのは、こういう事です。
そんな日本人にとって、「信じる」という言葉は必要以上に重く感じるのでしょう。ハードルの高い言葉なのです。

聖書で突きつけられる?信仰

イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。が不信頼だからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」

マタイ17:20(私訳)

イエスは答えられた。「まことに、あなたがたに言います。もし、あなたがたが信じて疑わないなら、いちじくの木に起こったことを起こせるだけでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ(原語:持ち上げられよ、そして海に投げ込まれよ)』と言えば、そのとおりになります。
あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でもうけることになります。」

マタイ21:21-22

イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

マルコ9:23

まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ちあがって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる神の保証をつかみ続ける者には、その者が言ったとおりになります。ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じ信頼しなさい。そうすれば、そのとおりになります。

マルコ11:23-24(私訳)

イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」

ヨハネ11:40

聖書には、信じなさいとか、信じないのですか、とか、あなたの信仰とかいう言葉が沢山出てきます。何だか自分には馴染まないなぁと思う人が多いのではないかと思います。

誤解の多い訳『信仰』

ピスティスの訳が生む誤解、分かりにくさ

以前笠原さんがメッセージの中で、「信仰」と訳してある言葉はギリシャ語で「(名詞)ピスティス:πιστός 。(動詞)ピステウォー: πιστεύω」で、「信頼」とも訳せますよとお話しして下さいました。
このピスティスは、信頼真実という訳があります。

多くの人にとって、私自身にとっても「信仰」という言葉の印象は良くないです。
響きも宗教的、ハードルも高いですし、盲目的で、論理証明知識とは無関係で、暗闇の中を全力疾走するような印象を持たれます。

よく誤解されるので、「信頼」という言葉を使った方が良いと思います。
「信頼」の方が、聖書にある信仰の概念を正確に伝えてくれます。

何故かというと、私たちが信じる時は盲目的に信じるのではなく、真実だと信じる理由があるもの、信頼に値するものを、信頼(信仰)するからです。

この世の常識、神の常識

この世の常識は、「見ることが信じること。見れば信じるです。
でも、それは神の常識ではありません。神の御言葉についての常識は、信じることは見ることです。

根拠なしに行動することが信仰、信頼ではありません。
「信仰は望んでいることの実体です。
神が望まれていることを今、目で見ることは出来ませんが、信じること イコール 見ることです。他の可能性があっても、神に従う道を選ぶのです。
神の御言葉を通して、神を信頼出来るようになるのは、神の恵みのなせるわざです。

ちなみに「信仰」ってなに?

一般的に信仰という言葉を使う時に、2つの理解の仕方があります。

①教理をまとめたもの。
ある宗教の世界観からくる真実の主張を指しています。例えばイスラム教とキリスト教を比較させる時に使ったりします。

②信じるという行為をさすためにも使われます。
ルターは、理解、同意、信頼という3つの要素があると言いました。
何かの教理に知的に同意するだけでなく、その教理が主張している神に全身全霊で委ねる、信頼するということです。
日本で神を題材にしたマンガが流行るのは、仏教もキリスト教も「信じないけど知っている」という独特の宗教風土、独特の感覚で宗教に接してきたからなのです。

アブラハムの失敗

信頼が本物であるかどうかを示すバロメーターは、忍耐力であると言えます。

神様が約束して下さったことは、明日、明後日にすぐ叶うとは限りません。けれど、物事が自分の思うようには進まなくても、「神は私にとって何が最善であるかをよく知っておられるので、その神に私は信頼して行きます」という姿勢で、前向きに生きる忍耐力です。

アブラハムは信仰の父と言われるほど、主に信頼する人生を歩んだ人でしたが、それでも「待つ」という信頼のテストに何度か落ちています。
失敗のない人生、失敗のない信仰生活・信頼生活はあり得ないので、安心して下さい。失敗は成功のもとです。

ダビデの信頼

ダビデは神に愛された人でしたが、その人生は山あり谷あり、色々あった人です。
ダビデは、息子のアビシャロムが自分の命を狙った時に、ただ逃げるしかありませんでした。それはまさに、ダビデの神への信頼そのものが問われる出来事だったでしょう。

ダビデは自分に向かって、「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐら。私は決して揺るがされない。」と祈りました。
詩篇62篇1節-2節です。
讃美歌にもありますが、これはダビデが絶望的な状況の時に、祈った言葉でした。

そして自分を信頼している民に対して、「どんなときにも、神に信頼せよ。と言っています。
神を信頼したダビデは元の地位を回復しました。自分の力を信頼したアブシャロムは、失脚しました。
これが歴史における神の真実です。

イエス・キリストの真実(信実)-ピスティス-

しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。

ガラテヤ2:16

ここだけでなく、『イエス・キリストを信じる信仰』、『イエスを信じる者』という表現は聖書に沢山出てきます。ローマ3:22、ローマ3:26、ガラテヤ2:20、ガラテヤ3:22、ピリピ3:9等です。

表現の違いがあっても、どれも、「イエス・キリストを信じる信仰」によって人は義とされ、救われるという風に教えています。
でも、これはどう考えてもイエスの言われることと矛盾するのではないでしょうか。
ヨハネ5章には、死人が救われるにはただ、私を遣わした者の声を聞いて応答すればよいとあるからです。

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

ヨハネ5:24

「わたしの言葉を聞いて」、「イエス・キリストを信じる者」は救われるとは言われていません。
わたしを遣わされた方を信じる、というのは神の呼び掛けに「応答」するということを意味します。

訳の問題;ピスティス+○○の

「アブラハムの信仰」というとき、ギリシャ語の構文はピスティス+アブラハムとなっています。これをさすがに、「アブラハムを信じる信仰」とは訳さないと思います。
「イエス・キリストを信じる信仰」と訳されている部分も実は、同じ構文、ピスティス+イエス・キリストの』となっています。
だったら同じように、『イエス・キリストの信仰』と訳すべきではないでしょうか?

ガラテヤ2:16は、本当はこう訳すべきではないでしょうか?

しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストの信実によって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスに信頼しました。律法を行うことによってではなく、キリストの信実によって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。

ガラテヤ2:16(私訳)

真実信実としたのは、偽りがないこと。を強調する為です。
キリストの信実、というのはもっと言い換えればキリストの十字架という意味です。

この訳のついての異議が申し立てられてから約100年経った1983年、リチャード・ヘイズの論文『イエス・キリストの信仰』にて、イエス・キリストの信実という訳の方が正しいことが論証されています。
他にも例えば誤解を受けそうな御言葉に、エペソ2:8があります。

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。

エペソ2:8

この恵みのゆえに、あなたがたがイエス・キリストの真実(信実)によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。

エペソ2:8(私訳)

ローマ人への手紙3:22、3:25も同様です。
ローマ書3章ではどの「信仰」(ピスティス)も、22節の話を受けているので、全部「イエス・キリストの信実」、すなわち「イエス・キリストの十字架」による義の話になっています。

まとめ

聖書に書いてある「信仰」という言葉について考えてきました。
日本人にとって馴染みが薄く、宗教用語っぽくもあり、とてもハードルの高い言葉です。

信仰という言葉はパリサイ人や宗教学者にはお似合いかも知れませんが、私たち、イエス・キリストの十字架に信頼する者たちにとっては、シックリこなくて当然です。

私たちは盲目的に信仰しているのではありません。
信頼に値するお方に、信頼しているのです。

そして、「イエス・キリストを信じる信仰」によって救われる、義とされるのではありません。私たちにそんな素晴らしい信仰はありません。
あくまでもイエス・キリストの真実(信実)によって神の呼びかけに応答することによって救われるのです。

洗礼を受けるときに「証しをしてください」と言われると思いますが、それは、”あなたはどなたに信頼するのかということが問われているからなのです。
キリスト・イエスの十字架信頼して生きましょう。

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