9月6日:ルツ記1

メッセージ

今皆さんと学んでいる『使徒の働き』、2章の最初に『五旬節の日になって』とあります。この五旬節は別名ペンテコステといい、使徒たちに聖霊が下った記念すべき日ですが、ユダヤ教でもこの日は『七週の祭り』というお祭りの日です。
この日には伝統的に、ユダヤ教では『ルツ記』が読まれます。

ルツ記はユダヤ人ボアズと異邦人ルツの出会いと結婚が描かれた、短い美しい書です。旧約聖書で馴染みのない方もおられると思いますが、ルツはダビデ王の曾祖母、やがてイエス様へと繋がる系図の女性なのです。

今回はルツ記の1章から、異邦人ルツが故郷を離れ、イスラエルの神と共に生きる決心をするところまでをご一緒に学びたいと思います。

ルツ記1章より

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。

使徒の働き2:1

五旬節というのはイエス様の十字架から50日後、昇天から10日後の日の出来事です。この日は伝統的に、ユダヤ教では七週の祭りを祝っていました。
レビ23:15~21にあるこの祭りの起源は収穫祭です。のちに、出エジプトから49日後、シナイ山で神が律法を与えて下さったことを記念する祭りとなって行きました。

ユダヤ教、キリスト教の三大祭

キリスト教の三大祭

まずキリスト教ですが、言わずと知れたクリスマスがあります。そしてイースターと呼ばれる復活祭も、クリスチャンでなくとも聞いたこと位はある記念日ではないでしょうか。

五旬節ですが、これはペンテコステとも言い、約束の聖霊が注がれて教会が誕生した日です。
ユダヤ人とクリスチャンで祝う内容は違いますが、いつの時代も同じ日に祝うのです。

ユダヤ教の三大祭

ユダヤ教の三大祭は、まず過ぎ越しの祭り(ペサハ)です。クリスチャンの耳にも覚えがあるのは、イエス様が過越の祭りの朝に十字架につけられたからです。最後の晩餐の食事は、過ぎ越しを祝う食卓でありました。
エジプトを脱出したイスラエルの民ですが、その際エジプトに下った10の災厄の10番目を過ぎ越して頂いた、それを記念します。

出エジプトを果たしたイスラエル人は、40年間荒野を彷徨います。その際に住んでいた仮の住まい(仮庵)を記念するのが、次の仮庵の祭り(スコット)です。現代でも庭や自分の家の前に仮庵(スカー)を建てて、先祖が体験した苦難の道のりを覚えます。

今回出てくる七週の祭り(シャーヴォット)は収穫祭の色が濃いですが、シナイ山で神が律法を与えて下さったことを記念しています。

なぜルツ記なのか?

ルツ記の読まれる七週の祭り

この書はただの恋愛物語ではありません。ダビデ王の曾祖母にあたる女性が描かれた物語なのです。
たった4章ですが、色々な内容が濃縮されています。

イエスの系図に連なる異邦人の女性

ルツはイスラエル人ではありませんでしたが、イスラエルの神を信じていました。真の神に忠実であった人なので、彼女の生涯をたどって読むのはこの日にふさわしい、と考えるのでしょうか。
上の図を見ますと、系図の中の3名のうちルツはモアブ人で、ベツレヘムへ義母のナオミと帰って行くのですが、ベツレヘムはダビデ王の出身地、そしてゆくゆくはイエス・キリストのお生まれになる土地でもあります。


この記を読むというのは、異邦人代表のルツユダヤ人代表のボアズの一体化が見られる、という点で、非常に預言的な行為であると言えます。

ルツ記一章 あらすじ

士師の時代

時代はまだイスラエルに王がおらず、王朝が出来ていない、つまり士師と呼ばれた政治的霊的、軍事的指導者が治めていた、混乱した時期でした。

飢饉(主の霊的な呪い;不従順etc.)を逃れるため、ベツレヘム出身の一家は、モアブの土地に移住します。
しかしその地でエフラテ人の夫エリメレクが死にました。息子2人はモアブ人の娘と結婚するも、息子たちも早死にしてしまい、女性3人が残されました。

エリメレクの妻ナオミ、キルヨンの妻オルパ、マフロンの妻ルツです。ベツレヘムを出てから約10年経っていました。
寡婦となったナオミは、自分の故郷がまた主に顧みられたと聞いたので、帰国することにします。そこで義理の娘2人に「あなたがたは、それぞれ自分の母親の家に帰っていきなさい。」と言うのです。

オルパは3回「帰りなさい」と言われて、故郷へ帰ることにします。
しかしルツはナオミにすがって「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」と、4回「帰りなさい」と言ってもついてくる決意を見せました。

ある日ルツはボアズという人の畑で落ち穂を拾わせてもらうことになりました。(落ち穂拾いは、異邦人や未亡人など、社会的弱者のために設けられた公の救済(福祉)制度)

ここまでが1章のあらすじです。

目立たない、普通の登場人物たち

いたって普通の人々が描かれています。
その彼らが主の支配のもと、主の呼びかけに対応することによって、ダビデ王の生まれる準備がなされていくのです。それはゆくゆくは、イエスの生まれる準備でもありました。

信仰をもって、主に人生を委ねていく人々を器にして、神の救いの計画がなされていく物語なのです。

ナオミの絶望、信仰と不信仰

ナオミの絶望。信仰と不信仰

ナオミは異国の地で、すべてを無くしたかのように見えました。夫は死に、息子二人も死に、しかも跡継ぎがいませんでした。子孫が与えられず死んでいくというのは、とてつもない恥だったのです。

レビラート婚という制度が申命記にあります。子孫を与えられないまま家長が死んでしまった場合、亡夫の兄弟と結婚して”その名がイスラエルから消し去られないように”する、という律法です。
ただその義務はあくまでも兄弟(同居している兄弟)までなので、どちらも亡くなっている今回の場合は絶望的です。

 主の御手がわたしに下されたのですから。

ルツ記1:13

このつらい現実を、ナオミはこう言って素直に受け止めています。ナオミは誰にも不平や不満、愚痴を言いませんでした。これは主からのことだと受け止めていたのです。

主がご自分の民を顧みて、彼らにパンを下さった、とモアブの地で聞いたからである。

ルツ記1:6

ナオミは主の恵みを聞き逃がしませんでした。「帰ってみよう」そう思えたのは主の顧みを信じて、身を委ねたからです。
それが、救いの恵みを受け取れる態度なのです。しかしナオミは帰った先のベツレヘムでこうも言います。

「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。

ルツ記1:20

主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。

ルツ記1:21

ナオミは主を頼っていましたが、ここで真実な気持ちも吐露しています。辛い目に、というのは「ラーアー」(רָעַע)「悪いことをする」という意味なので、「神は私に悪いことをなされた」と言っているのです。

神がどれだけ慈しみ深い方であるのか、そのご計画の全貌を知らないで不満を漏らすナオミは、よほど精神的にも脆くなっていたのでしょう。彼女を支えるようにしてついてきたルツの信仰が、この言葉を聞いても揺るがないのが素晴らしいと思います。

ルツの決心

ルツの決心

ナオミと一緒にいる、ナオミと一緒にベツレヘムへ帰る、このことをルツは決心しました。
ルツはモアブ人として育ち、結婚した地もモアブの地ですから、弟嫁オルパのように、まだ再婚できる見込みのあるうちに、自分の家へ帰るのが自然なのです。

エリメレク一家は異邦人の地に来ても、イスラエルの神を中心とした生活を送っていたのでしょう。妻たちにも本当の神様を伝えていたことでしょう。
それでも、私たちは過去の習慣、過去のしがらみや繋がりを簡単には断ち切れないのではないでしょうか。

ルカ14:25~27

イエスはついてくる大勢の人に向かって言われました。

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

ルカ14:25~27

ここでは、実際に”憎め”と教えているのではありません。Aを否定することでBを際立たせるという、ヘブライ独特の話法により、「わたしについてくること」が強調されているのです。

家族の関係も、自分自身がどうなっても、イエス様との関係を優先させるという姿勢が大事です。
ルツは故郷のすべてを捨てて、イスラエルに生きる者となりました。

ルツの優先させたもの

夫が死んだ今、ルツはこれまでの習慣の中へ帰って行くことも出来たのです。しかしルツは、支えとなる周りの環境や文化などよりも、神との個人的な関係を持つことのほうを優先させました。

現代の日本で考えるならば、学校がミッション系だった。友達がクリスチャン。クリスマスに教会に行った事がある。牧師の話を聞いたことがある、結構いい話だった、信じてもいい・・・でも、自分の生活を振り返れば、お正月には家族揃って、または友人と初詣。七五三でお宮に行く、2月には豆をまいて、3月や5月には節句を祝い、盆踊り、お盆のお墓参り、クリスマスもした後は大晦日に除夜の鐘をつきに行く。

こういった今まで慣れ親しんできた慣習があります。

イエス様にすがれますか?!

あなたはたとえ他の人から反対されても、イエス様にしがみつきたいと思うでしょうか?
ルツは4回「帰りなさい」と言われてもすがったのです。ヘブライ語の「すがる」は創世記でアダムとエバが一つになったのと同じ言葉が使われます。
一体となる、という意味があります。

ルツはイスラエルの神を「私の神」と呼んで、個人的な神としたのです。

まことの神を第一に!

モアブ人であるルツが、イスラエルの人々の中に入って行って生活をするというのは、想像を絶する大変さが予想されるのです。そこは神を絶対的な基準とする社会です。
その共同体に入れば安心できる・・・というようなものではありません。

神を基準とするルールがあって、それに従って生きていく、責任ある共同体の中に入るという覚悟が必要です。
私たちクリスチャンも、イエス様に信頼した瞬間、神の家族の一員となります。そこではイエス様がかしら、一人一人がイエス様を第一にして行く生き方をしている、という家族なのです。

まだ捨てられない過去、習慣、繋がり等があれば今日それを断ち切りましょう。
ルツが故郷の偶像、ケモシュを捨ててまことの神を選んだように、あなたも主について行く決心をしてください。

※動画と音声はこちらより。パスワードは webcha です。

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