1月10日:「信仰を強く」は期待はずれ!

メッセージ

今年は、もっと信仰が強くなりたい。」と求めておられる方もいらっしゃることでしょう。私も求めた時期がありました。
ネットでも「信仰を強くする」をテーマに、いろいろな方が数々の勧めをしています。聖書を使っての勧めもたくさんあります。
しかし、私が調べた範囲では、「信仰が強くなる」ことを期待できるものは、ありませんでした。

どうしてでしょうか?  

信仰ではなく、信頼へ

「信仰を強くするために」ということで調べると、多くのサイトが色々な提案をしているのが分かります。

多くのサイトが「信仰を強める」には・・・ということを提案している

山をも動かす信仰?!

まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。
ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

マルコ11:23~24

これは、山のように立ちはだかる大問題について言っているのでしょうか?それとも、神のみ言葉を信じて疑わず、頂いた答えを信じ続けなさい!ということを教えるために言われたのでしょうか?
一体『何を』信じるのでしょうか?ここへ続く22節が重要です。マタイ17:20でもイエスが同じことを言われている箇所がありますが、こちらには書いてありません。12弟子にとっては暗黙の了解だったのでしょう。

イエスが22節で言われたのは

イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。

マルコ11:22

これは、神に対する私たちの信仰が問われているのではありません。実はここの訳は、翻訳者たちも戸惑った所なのです。
原語では『神を』という対格ではなく、『神の』という属格が使われているからです。
さらに『信じる』ピスティスは、動詞ではなく名詞が使われています。

神のπιστοῖςピスティスとは

ピスティス πιστοῖς:信仰、信頼、信念、忠実さ、保証

この文の動詞としては『持つ、つかむ』の現在命令形が使われています。「持ち続けなさい、つかみ続けなさい」という意味です。
すると、「神の信仰を持ち続けよ」という訳になるのですが、これもどうでしょうか?ちょっと分かりにくいですね。なぜなら、神は信仰を必要とされていないからです。
神こそが信仰と信頼の対象です。
神ご自身は、何者をも信仰されないのです。

そこで、ここでの意味は『保証』が1番良いのではないかと思います。

神の保証を持ち続けなさい。つかみ続けなさい。

私たちに掛かっているのではなく、神の保証が大事です。これに掛かっています。そこで、「信じる」と訳してある部分にこれを当てはめてみるとこうなります。

まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる神の保証をつかみ続ける者は、その者が言ったことがそのとおりになります。
ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じ信頼しなさい。そうすれば、そのとおりになります。

太字私訳 マルコ11:23~24

その人(者)の言ったことが、という部分が日本語の聖書には抜けています。

宗教の求める「信仰」

信じなさい、というのは自分の信心の強さを求められます。これは宗教です。
イエスはそう言われていません。「信頼しなさい」というのは、自分に重きを置くのではなく、全能の父なる神の力に重きを置いているのです。

人格的な対象、『聖書の神』に対しては、信じるや信仰よりも『信頼する』の方が正しいのです。
”そのとおりになります。”とは、神は必ずその祈りに応えて下さる、という事です。その保証を私たちは持っているのです。

神に対しては「信仰」でいい?

信仰、という文字をwikipwdiaなどで調べてみると、以下のように書いてありました。

信仰とは?!

聖書は、信仰に対してどう言っているのでしょうか?

「神を信じる」と一般的に言った場合、イワシの頭も同じように信じる対象になり得ます。生きていなくても良いのです。
つまり、人格的関係がなくても出来るのが「信じる」ことです。人格的関係がないから、「信じる」も「信仰」も知的な同意止まりなのです!
「従う」ということが含まれていません。

私たちに人格を与えた三位一体の神は、単なる祈りの対象、信仰、信じる対象ではありません。

創造主との関係が大事です

新約聖書にはピスティスが名詞で228回、動詞で220回、形容詞で62回も出てきます。信仰、信頼、信念、忠実さ、それとも保証が適切でしょうか??
神に対しては、『信頼』。これが良いのではないでしょうか。

行いのない信仰例と、信仰の定義‐ヤコブの手紙より‐

しかし、「ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります」と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰信頼をあなたに見せてあげます。
あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。
ああ、愚かな虚しい人よ。あなたは、行いのない信仰が無益な死んでいることを知りたいのですか。

太字私訳 ヤコブの手紙2:18~20

ここでは”悪霊ども”の信仰について出てきます。

悪霊どもの信仰

恐らく悪霊が信じているその知識量は、私たちよりもはるかに多いのではないでしょうか?!
彼らは霊的世界を知り尽くしているのです。しかし彼らは、信じて受け入れてはいますが、知的同意止まりなのです。

行いがない・・・つまり彼らは「従うつもりはない」のです。

死んでいる、悪霊どもの信仰

神は唯一だと知って、身震いしている。:彼らが仕えているサタンは「唯一」ではないと知っている。それゆえ不安を抱えて身震いしている。しかしそれでも、真の神に仕えようとはしない。
不従順の結果がゲヘナ行きだという事も知っています。
そのため、少しでも多くの人間を惑わし、ゲヘナへ道連れにしようとしているのです。

からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。

ヤコブの手紙2:26

従う、と言う行動の伴わない信仰は、知的同意止まり。死んでいる信仰です。

「信仰を強く」、は期待はずれ!

使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増し加えてください。」
すると主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰信頼があれば、この桑の木に『根元から抜かれて、海の中に植われ』と言うなら、あなたがたに従います。

太字私訳 ルカ17:5~6

使徒たちの願いは退けられました。私たちが同じように願っても聞いて頂けないでしょう。
宗教や、キリスト教では、信仰を増すことは重要なことなのかもしれません。でも、キリストの弟子には無意味なのです。

強い信仰、深い信仰は無くても良いのです。
神とイエスに信頼することがすべてです。

信仰と、信頼関係の違い

 信仰 信頼
 お金と違って、積み重ねることで増えていくものではない。 年を重ね、時間と問題と人生を共有するごとに深まっていく。
 どんなに強そうでも、外的な力で一瞬で消えてなくなる。
例)水の上を歩いたペテロ/イエスを3度も否定したペテロ
 壊そうとする外的な力が加わっても、かえって強くなる。
 人間側の意志や、信心深さや、強さに重点が置かれている。 信頼する対象に重きのすべてが置かれている。
信仰は、一方的信頼は、双方の努力が必要。
信頼と信仰の違い

救いも、信仰ではなく信頼から

ローマ署に見る信頼/赤字は私訳(11節まま)

信頼することが大事。宗教でもキリスト教でもありません。
私たちと神との関係は「信仰関係」ではなく「信頼関係」です。
ぜひ、イエス・キリストを信頼することにより、失望させられることのない救いを受け取りましょう!

※より詳しい内容と画像はこちらより。パスワードは webchaです。

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