1月17日:本当の礼拝-日曜礼拝を超えて-

メッセージ

『礼拝』とは?

大体世間一般の教会では、日曜日の9時半、あるいは10時半から、大きな教会ですと夜の礼拝もあったりして、3回に渡って礼拝が行われる所もあるようです。
3回もやるんだから、どこかには来られるでしょ?!という感じです。
一般的に「日曜礼拝」「聖日礼拝」とも言われるこの一連の儀式は、果たして聖書にはどう書いてあるのでしょうか?私たちの義務なのでしょうか?

礼拝の流れ:カトリック

カトリックの礼拝、ミサの流れ

礼拝のことをミサと言います。
カトリック教会における儀式(典礼)の中でも特に重要な意味を持つもので、これらを執り行う聖職者を、司祭(神父)Priestと呼びます。ちなみにプロテスタント教会には司祭という役職は存在せず、指導者的な役割を担うことを認められた人は、牧師Pastorと呼ばれます。

大きな教会、小さな教会と色々ありますが、聖堂(お御堂とも)の中には正面に十字架に掛られたイエス・キリストの像が掛けられており、脇の方に聖母マリアの像もあったりします。

カトリックの一般的な礼拝の流れ

この流れ、番号を振って見たらかなり長いですね!
でも大丈夫、1年間毎週変わることはありませんので、必ず覚えられます。司祭、または司会と会衆の応答によって進んでいきます。
個人的にはこの中で1番重要な所は、聖体拝領と、ここへ向かって行く一連の流れだろうと思います。23番目の第二奉献文辺りから盛り上がりを見せて、主の祈り、信仰告白、聖体拝領です。

礼拝の流れ:プロテスタント

プロテスタント教会の礼拝

色々なタイプがあると思います。
私はもともとカトリックのバックグラウンドで育ち、NZに来てからこちらのプロテスタント教会で救われたので、日本でのプロテスタント教会の礼拝を知りませんでした。

今回調べて、あまりに今、私たちがやっている礼拝と違う、ある意味キッチリした形式があるのに驚いてしまいました。

私がいたNZで所属していた教会では、最初にお祈りをします。そして賛美歌とかワーシップソングというクリスチャンの歌を何曲か歌って、その後、説教(メッセージ)があり、祈りがあり、献金袋が回って、最後にまたお祈りを牧師又はリードする人がして、お知らせがあって終わる。という感じでした。聖餐式は、月に1回、説教のあとにありました。
恐らく一般的な教会でも同じなのですが、日本基督教団の礼拝手順を見てみますと、結構厳格な印象です。

プロテスタントの礼拝

カトリックから分派した英国国教会などは、知らずに参加すればどちらなのか分からない位、カトリックと似た様式です。
世界を探せば、色々なスタイルで日曜日の礼拝を行っている教会に出会えるでしょう。それでは、実際に聖書は礼拝についてどう言っているのでしょうか?

聖書は礼拝について、どう言っているのか

ローマ12:1

ですから兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

ローマ人への手紙12:1

実はこの最後の、「あなたがたにふさわしい」という訳は「あなたがたの霊的な」という意味です。

この聖書の言葉によれば、「礼拝」とは、「自分自身のからだを、聖なる生きたささげ物として献げること」です。
ここで使われている礼拝は、ギリシャ語でラトレイアと言います。「礼拝」そのものの行為よりも「定められた礼拝の方法」といった意味があります。(※ちなみに、一般的な「礼拝」は、ギリシャ語では「プロスクネオ」で、新約聖書に60回登場)

「自分自身を生きたささげ物」とする、というのはちょっと現代の私たちにとってピンと来ません。そこで、旧約聖書から見てみます。

旧約聖書での礼拝

それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻ってくる」と言った。

創世記22:5

ここで初めて「礼拝」という言葉が出て来ます。
これは、アブラハムがイサクを「いけにえ」として神に捧げようとするシーンなのですが、礼拝行為にはこのように、いけにえを捧げる行為が付きものでした。

ほとんど「礼拝」と訳されるこの言葉ですが、地面に伏して崇拝するという意味あり、伏し拝むとも翻訳されます。
ヘブル人の手紙にも、旧約時代の礼拝のことが書いてあります。

さて、初めの契約にも、礼拝の規定地上の聖所がありました。

ヘブル9:1

礼拝は「いけにえ」などの「ささげ物」がセットの、複雑な儀式だったと同時に、Ⅰ列王記のダビデはベッドの上でも礼拝したようです。

~すると、王は寝台の上でひれ伏されました。

Ⅰ列王記1:47

だから神が色々な規則を与えられた後の時代になっても、礼拝とは基本的に、ひれ伏して主を拝むというシンプルな行為だったのかもしれません。

新約聖書の礼拝

彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。
私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」。
イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。

ヨハネ4:19~24

ローマ12:1以外にイエス様が礼拝をどう見ておられたのか分かる箇所です。サマリア人とイスラエル人の確執は以前お話しましたが、サマリア人はゲリジム山で礼拝を捧げていたのです。

イエスの提言された驚きの礼拝

驚きの礼拝ポイント

イエスはここで、サマリアの女に礼拝のポイントを告げています。

①礼拝は、どこでもできる。
②御霊と真理によって「礼拝」する。

1つ目はそのままの意味ですが、2つ目は分かりにくいかも知れませんので、旧約時代と比較してみましょう。

モーセの律法と、イエスの教えの対比

イエスを通して行う礼拝が、旧約の礼拝より格段に自由になっていることが分かります。更に、2回も言われた「御霊と真理」ですが、御霊は聖霊のことです。聖霊の助けがなくては、イエスを知り、救い主として受け入れることはできません。
真理とは、イエスご自身のことです。イエスが唯一のいけにえであり、大祭司であり、イエスによって救われ、神に近づけるという真理です。

この幕屋は今の時を示す比喩です。それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。(中略)
しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。

ヘブル9:9~12

イエス様以降に生きている私たちは、いつでもどこでも礼拝できますし、旧約のいけにえや、儀式をしなくても、ただイエスお一人を通して神に近づき、神との親密なコミュニケーションをとれるのです。

生きたささげ物とは・・・?

パウロは、旧約でのいけにえ、儀式に対比させて説明をしています。「完全なささげ物」は、牛でも羊でもなく、イエスただお一人ということなのです。そして、更にパウロは大胆に、「自分自身をささげ物として献げなさい」と提案しています。
「自分自身」を捧げる、つまり私たちの生き方そのものが礼拝になるのです。

日曜日に集まる、というのは色々な根拠を上げる方がいますが、結局のところ”文化”であり”習慣”です。日曜の礼拝そのものに本質はないのです。
それでもパウロは、集まるのをやめてはいけませんと提案しています。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。
イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。
また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、
心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。
約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。
また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。
ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることがわかっているのですから、ますます励もうではありませんか。

ヘブル10:19~25

お互いに心を新たにするために、お互いが神の子ども、兄弟として助けあり励まし合えるように、集まらなければいけないのです。
生き方そのものが礼拝だから・・・と、たった1人になってはいけません。それは徐々に、自分1人だけで全てやれるような錯覚を起させるからです。

イエスが提案した、もう1つの礼拝

マタイ18:19~20

この「集まっている」はギリシャ語でエクレーシア。私たちの集会の名前にもなっています。

その中、ではなく「その中心」というのが正しい訳ですが、今でもユダヤ人たちは10人集まらないと礼拝を開催出来ません
これは創世記18章でアブラハムが神と交渉した時、人の最小単位を10人としたことに起因します。だからこのイエスの言葉は、ユダヤ人にとって驚愕だったのです。

1人ではなく

重要なのは、「1人」とは言っていない点です。
私たちは例え2人しかいなくても礼拝をすることが出来ます。でも、1人ではできません。2人でも3人でも、信仰の友と集まるのが重要なのはこの点にもあります。

イエスの名のもとに集まろう!!

ぜひ、私たちの生き方そのものを、共に、礼拝にしようではありませんか。


※より詳しい音声と動画はこちらより。パスワードはwebchaです。

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