1月3日:ルカ18章より『祈り』

メッセージ

いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。
ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
その町に一人のやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私を訴える人をさばいて、私を守って下さい』と言っていた。
この裁判官はしばらく取り合わなかったが、後になって心の中で考えた。『私は神をも恐れず、人を人とも思わないが、このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう。そうでないと、ひっきりなしにやって来て、私は疲れ果ててしまう。』」
主は言われた。「不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。
まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。
あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰がみられるでしょうか。」

ルカ18:1~8

節の「祈るべき」は、「祈り続けるべき」という意味です。

祈りの輪を作りましょう

祈りで繋がり合うことの大事さ

去年から『祈り』について深く考えさせられます。この集会に集うY姉が、ラインで祈りの輪をあっという間に作って、シェアして下さったことは奇跡だ!と思いました。

多くの必要が書き込まれて、書き込まれると今すぐ祈れる人から祈る。
そして祈った結果もシェアされると、主との生きた会話を皆が知ることができて、とっても励ましになります。
集会によっては、祈って欲しいという要望はあるのに、様々な事情によって、どうしても『祈りの輪』が出来ないという所もありますから、素晴らしいです。

ぜひ、兄弟姉妹と祈りの輪を作り、お互いに祈り合うことが出来たらと思います。
主イエスの名によって祈ることは、何よりも励ましになります。

どんな祈りが良いのか?

祈りのスタイル、どう祈ればいいのかというのに答えはありません。
「祈っているなら、すでに『正しく祈っている』のだ」という言葉もあります。

ルターは1日平均2時間祈りました。しかも「言葉が少ないほど良い祈りである」と言っていました。そのルターも、徹底的に祈ってもなお、自分を恥じる意識、価値がないと感じる意識、劣等感から、なかなか逃れる事ができなかったのです。
彼はあるとき、イエスは最も価値のない人たちに恵みや赦しを与えることで、神のご性質を示しておられる、と気付いて、そこが突破口になったそうです。

祈るときには、「ありのままの自分」で、神に近づく正直さが大事なのではないかと思います。

祈るための資格

祈るのに資格は必要ありません。

神は、良い人の話だけ聞かれる方ではないのです。
依存症が克服出来たら、あの人を赦せたら、ちゃんと教会へ行けたら、聖書が読めたら、祈る資格が出来るのではない。聖書では明らかに、価値のない人の祈りに主は耳を傾けていらっしゃいます。

例えばモーセはかなり苦労もしましたが、怒りっぽい人です。サムソンは士師とは名ばかりのわがままで、女好きでした。ヨナを舟の外へ放り出した人たちは、本当の主を信じている訳ではありませんでした。
価値がない、というところが寧ろ祈りの出発点なのではないでしょうか。

自分には価値がない、祈る資格もないという意識がなければ、そもそも神の名を呼ぶ必要がないかも知れません。
主は、私たちの干からびた、からからになった心を満たして下さいますが、もし私たちが神以外のもので、すでに満ち足りていたら、神は、空っぽになっていないものを埋めることはおできにならないからです。

決まった祈り、暗記した祈りを繰り返すことは、どうなのか?

初期のピューリタンは、イギリス国教会の伝統的な、荘厳な祈りを「カッコーの鳴き声だ」と言ったそうですが、書かれた祈りが全くダメだ、心がこもっていないというのではありません。
伝統的に多くの人に唱えられてきた祈りと言うのは、練られて、磨かれています。
異端の入る余地がありません。

霊的に乾いてしまって、どうしても自分の言葉で祈ることができない!というとき、他者の信仰ではなく、他者の祈りの言葉に頼ることも、ありだと思います。
祈祷書を使う、聖句を暗唱する、パウロの祈りをそのまま暗記して唱える事も良いのではないでしょうか。

信じること、信頼すること、祈ること

1+1=2だと分かっているのに、1+1=2であることを信じられないでいる、数学でそういうことはないと思いますが、真実に関して言えば、あると思います。

私の体験で恐縮ですが、私は以前、聖書に書いてる神が本物であるかどうかを知りたいと思い、旧約聖書から新約まで聖書を読み、また、聖書が正しい書物であるかどうか、編纂の過程で、人が不正に何かをつけ足したり取り除いているのではないかという事も疑って調べました。

信じるが、信頼はしない?!

他の宗教とも比べたし、矛盾がないかどうか追求しました。その他色々と、神学的な疑問も投げかけてみました。その結果、他の神や宗教とは違う、これはいわゆる宗教ではない、この神こそが真の神だという事に気付いたのです。
もう信じるしかないという状況です。

しかし私はまだ理解はしたけれど、これ以上この神に踏み込む必要も感じられませんでした。
これが、理解することと信頼することとの違いだと思います。

あるとき私はどうしても、祈る必要に駆られます。自分の力ではどうにもならないことに直面したのです。
今まで祈る事だけは拒否していた恥ずかしさもありましたが、覚悟を決めて椅子に座り、主に呼びかけて今の状況を話し始めます・・・どうにかしてくれるようにお願いしたのです。
すると、突然「臨在」としか言いようのない雰囲気に包まれました。

大きな温かい力が背中から両肩を包んで、座っていられなくなって床に跪きました。祈りの際に何故か涙が出たのは、後にも先にもこれ切りです。

祈りという体験、主とのコミュニケーションを通して、今まで疑いと研究の対象だった神が、自分を作って下さった神、導いて下さる神、守って下さる神に変わった瞬間でした。
案ずるより産むがやすしだったのです。

勿論神は変わられません。変わったのは自分の方だったのですが。祈りには私たちの考える以上のがある。考える以上の重要性があると実感します。

祈りの体験は、思った以上でした。

祈りとは・・・コミュニケーション

祈りは神と私たちを繋ぐ唯一のコミュニケーション手段と言ってもいいと思います。


聖書を読むというのは、神さまからの手紙を読むことに似ています。
勿論、すみずみまで読んだ方が良いとは思いますが、すみずみまで読んだからと言って、神へ信頼できる訳ではないでしょう。読んだから全ての箇所に納得できる人も少ないと思います。

祈る事だけが、感謝でも愚痴でも願いでも疑問でも、兎に角、何かを、生きていらっしゃる神に向けて発信することだけが、私たちから神へ出来ること、アクションではないかと思います。

あなたは話していますか?

私たちは、主に自分のことを話しているでしょうか?

神はいつも語りかけていて下さる。気に掛けていて下さるのです。

自分の子どもが小さい時は特にですが、”今日はあの子に一言も声を掛けなかったな・・・”ということはないと思います。
だから、私たちの親である神も、毎日私たち子供に話しかけていて下さっている。

私たちが無視をしている、それに答えない時がある。
そして、自分のことを話そうとしない時があるのではないでしょうか。

働く人のオアシス、「祈り」

ロサンゼルスにある『カトリック・ワーカー』の、Hippie Kitchenという無料食堂では、ボランティアの方々がこういった祈りで1日の仕事を始めます。

主よ。私たちを、貧困と飢えの中で生き、死んでいく兄弟姉妹に仕えるにふさわしい者として下さい。私たちの手を通して彼らにきょうの糧を与え、私たちの配慮と愛によって、平安と喜びを与えて下さい。

そして、皆さんそれぞれの仕事に猛然と取り掛かって行かれます。
数時間後に、スープやサラダを毎日1000食以上も出さないといけない。
食材は充分だろうか、時間は充分だろうか、そもそもボランティアは足りているだろうか・・・色々な考えがよぎるそうです。

しかし、この準備で忙しい時間、ある人は「外で1時間祈ってきます」という。
余裕の人員などいないのです。1時間あればコーヒーを淹れたり野菜を切ったり出来るのに、それでも他のボランティアの人は「祈りに行ってくれ」と言います。

祈りながらこの重責をこなさいと、この食堂は彼らのわざになってしまう。
彼らはそうしたくない、神の御わざにしたいのです。

加えて週に1度、この共同体は全体で集まって、30分黙想の祈りをするそうです。
最前線で働いている人にとって、祈りはオアシスです。

神と私たちのパートナーシップ

神との関係性は?

これは一見、力関係で見るとおかしいことです。神と私たちには、上司と部下以上の開きがあると思いませんか?

人間が大きな力関係の差があるパートナーシップを作ると、力の大きい方が我を通し、弱い方が押し切られるという傾向があります。が、主ははるかに大きな忍耐力と包容力で、私たちとの正直な対話を求めておられます。
祈りというのは一言でいえば「神と親しくなること」です。

でも私たちは、なかなかイエスの様に、元気を回復させるためだけに祈ることができません。

旧約聖書では誰一人として、神を直接「父(なる神)」とは呼んでいません。逆に人間と神との距離を強調する様な呼び方はあります。(王の家来、裁判官の前の被告、主人の召使い等々)
対してイエスは170回も、「父(なる神)」と呼んでいます。
新約では「花婿の花嫁、羊飼いの羊、神の子」といった、親密さを強調する表現が多く、イエスも、よりこの親密さに頼ることをお教えになりました。

そして、あなたがたが子であるので、神は『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

ガラテヤ4:6

私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

ローマ8:26

ローマ書では、親密さがより一歩前進しています。

祈りとは

神は人間界の時間の法則に縛られないので、私たち一人一人に対して、まさに、世界の全時間を費やすことがお出来になります。
祈っても、神さまはあの人に掛りっきりだから・・・とか、私の祈りを聞く時間などないかも知れない・・そう考える必要は全くありません。

私たちが神に必要だからではなく、私たちに神が必要だから祈るべきだ、という人もいます。確かにそれでも、祈ることによって良い影響があることは間違いないです。
でもそれだけだと、祈りはどちらかというと対話ではなく日記のようなもので、個人的で一方的ではないでしょうか?

既に知られているのに、なぜ祈るのか?

あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

マタイ6:8

イエスがこう言われたのは、祈らなくてもいいという意味ではありません。
私たちは、父なる神にわざわざ、「世話をしてください」とお願いしなくても、父を説得しなくても良いのです。

私たちが思っている以上に、神は私たちのことを気に掛けていて下さっています。
祈りは、神に新しい情報を提供することではない。
神はこれを知らないかもしれないから、忘れているかもしれないから、ということで、要望を出すのでもありません。

「神様、私がこれを必要としていることを、あなたはご存知です」ということですよね。神は、私たちがそれらを一緒に心に掛けるのを待っておられる。
私たちは神の隣に立って、一緒に、問題を眺めるのです。

親友が、愛する人が、すでにその人のことが分かっているという人にも、「心配しているからね」と伝えるように。

イエスの姿勢から学ぶ祈り

イエスの、祈りに対する姿勢

それを聞くと、イエスは舟でそこを去り、自分だけで寂しいところに行かれた。

マタイ14:13

群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。

マタイ14:23

さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」

ルカ11:1

このほかにも、イエスは事あるごとに癒される必要のある人からも、話を聞こうとついてくる人からも離れて、父なる神と、親しい対話の時を過ごされています。
なぜ祈らなければいけないのか、一言で説明するならば、それは「イエスが祈られたから」です。
イエスに倣うのです。

ある修道院では、そこで霊的に静まろう、として滞在してする人にこう言うそうです「この滞在に祝福がありますように」そして、「何か必要なものがあったら、おっしゃってください。どうしたら、それなしに生きられるか、お教えしましょう」

消費者として要望を持って行くのではなく、ただ共に過ごしたいと思って神の元へ行く、神が私に何を求めておられるかを見極めるためだけに、神の元へ行くことがどれだけあるでしょうか。
私たちはいつでも祈るべきです。
それは、私たちのことを一番気に掛けて下さっている方との、正直な、親しい対話なのです。

※音声と動画はこちらより。パスワードは webcha です。
今回は会場の音がかなり入っております。

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