イエス様が受けてくださった十字架の救いを受け取り、永遠のいのちのプレゼントを頂いた後にも、「神の愛ってなんだろう?」そもそも、「愛ってなんだろう?」と疑問に思っている方はいませんか?
謎の多い言葉「愛」を、漢字の成り立ちや意味、歴史から探ります。
そしてハデースにまで下って下さったイエス様の行動、その目的を、聖書を通して、もっと身近に感じることの出来るように、皆さんと考えてみたいと思います。
※YOUTUBEの音声と画像はこちらより。
ヘブライ語での『愛』
旧約聖書が書かれたヘブライ語で、愛はアハヴァーאהבです。去年ルツ記をメッセージした時に、恵み、ヘセドחסדについてもお話しました。
この2つは愛を表す主要な名詞なんですが、他にも「あわれむ」と訳されるラーハム。ノアに使われた「ヘーン」があります。
ギリシャ語の『愛』
新約聖書が書かれたギリシャ語には「兄弟愛:ストルゲーστοργή」「家族愛:フィーリアφιλία」「性愛:エロスέρως」「神の愛:アガペーαγάπη」と4種類あって、聖書にはフィーリアとアガペーが用いられています。
これは既に色々な所で説明されていると思います。
日本における『恋と愛』
有名な話で、二葉亭四迷がツルゲーネフ原作の「片恋」という小説の翻訳中に、I love youを「死んでもいいわ」と訳したとか、夏目漱石が英語教師をしていた時代に、生徒が「I love youを「我君を愛す」とか「僕は、そなたを、愛しう思う」という風に訳したら、漱石が「日本人はそんなことは口にしない。月が綺麗ですねとでも訳しておきなさい」と言ったと言われているのですが、これはどちらも間違いです。
ネットでもこの2つは既に有名かも知れませんが、「片恋」の原文はそうなっていないんです。
漱石も、死後60年位経ってからの検証ではせいぜい「日本人は、そんな、いけ図々しいことは口にしない。これは、月がとっても青いなあ――と訳すものだ」とアドバイスしたらしいのです。
でもこれも本当にそう言ったのかどうか、確実ではありません。
I love youの訳は兎も角、英語では恋も愛も「love」ですが、日本語にはこれにピッタリ相当する言葉が元々ありません。
同時に思うのが、loveという感覚が日本的ではないのです。
意味から見る”恋”
『広辞苑』第6版から引用します。この辞書の特徴は、本来の意味はどうだったかを重視する点です。
それによると、〈恋 一緒に生活できない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく思うこと。また、そのこころ。特に、男女間の思慕の情。恋慕。恋愛>とあります。
恋というのは、「今ここにいない人、またはここより遠く離れた何かに、強く引かれる」という要素があるのです。
「亡くなったお爺ちゃんが恋しい」「遠く離れた故郷が恋しい」など、「恋しい」の意味には、それが特に強く感じられます。「互いに恋し合う」という風には使わないように、距離感が感じられます。
万葉集では山部赤人がこう歌いました。
明日香河川淀去らず立つ霧の思ひ過ぐべき孤悲(コヒ)にあらなくに
(飛鳥川にいつも立ち込めて去らずにいる霧のように、私の明日香の里への慕情も簡単に消え去るようなものではないのです)
旧京への深い思い入れを詠った、土地へ対する思慕の情を表した歌です。
漢字から見る”恋”
旧字体で見て見ると「戀」です。
下は心臓の象形文字。中央に口の象形文字があり、その上には取っ手のある刃物。その両側にあるのが糸ですので、「誓いの糸を引き合う」男女の姿を表しています。
やはり漢字で見ても「恋」は心惹かれる様子、または引き合う様子を表しているのです。
恋は純粋な日本語なので何とか理解できそうです。
ただ、愛は古代中国語なので外来の概念です。
奈良、平安時代の主要な古典にも、重用するとか、気に入る、かわいがるという意味で愛という言葉は、出て来ないわけではないですが、ほぼ出てこないんです。
漢字から見る愛
日本の古語では、「かなし」という音に「愛」の文字を当て、「愛(かな)し」と書きました。相手をいとおしい、かわいいと思う気持ち、守りたい思いを抱くさまだそうです。
『愛』にはまた、様々な由来があります。
使われ方も「祖国への愛」とか、「学問への愛」「私はコーヒーと愛している」「私は音楽活動を愛している」などと広いのです。
旧字体で見ると、「頭を巡らせて振りかえる人」の象形と「心臓」の象形がくっ付いているのと同時に、「足」を表す象形があることで、心だけではなく実際に行動に移している事が分かります。
イエスの行動から見る”愛”
イエス様は何故、あんなにも壮絶な苦しみを受けられた後、ハデースに直行されたんでしょうか。
3日の後に復活されることはもう決まってます。だったら3日間、天の御国で傷を癒し、天の御父の横でゆっくりくつろいでから戻ってくればいいじゃないですか。
ルカの16:19-31に出て来る、家族の為に悔やみ、悲しんでいるあの金持ちのような死者に、「自業自得だ!おまえ達は有罪!」と断罪しに行ったんでしょうか。もう霊魂のみになっている死者たちは、今の状況を見ればそんな事十分承知だと思うのですが。
又は、その死者たちに「私は今、十字架に掛かって来た。死に打ち勝ったぞ!」と勝利を宣言し、それまでに神を信じて死んだ霊魂だけを、解放しに行ったんでしょうか?これが1番良く聞く説です。Ⅰヨハネ3:20には、ノアの時代に従わなかった霊たちの所へ行って、福音を宣げ知らせたと書いてありますから。
しかし、この説が正しければⅠテサロニケに書いてある、携挙の際によみがえる「キリストにある死者」の説明がつきません。
そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。~
Ⅰテサロニケ4:16-17
ハデースに3日間下られた際に「神を信じて死んだ霊魂=キリストにある死者」たちが解放されたなら、携挙の時にハデースによみがえるべき死者(たち)はいません。
それでは何をしに行かれたのでしょうか。続くⅠペテロ4章6節にはこうあります。
ハデースの死者たちにも、福音を宣べ伝えられた!
このさばきがあるために、死んだ人々にも
Ⅰペテロ4:6(私訳)生前、福音が宣べ伝えられていたのです。
生前は補足と聖書の注釈に書いてありますが、要らない補足です。これは生前の話ではありません。
そして、”伝えられていた”のではなく、”伝えられた”のです。
この”死んだ人々”というのは、実際に、既に死んだ人たちの事です。”イエスを信じていないから、霊的に死んだ人”というような複雑な解釈は必要ありません。
このままだとさばき(白き御座の裁き)がある!その前に人類全員に救いの福音を伝えなければ!という切なる思いです。
ヨハネ3:16にあるように、まさに行動の愛です。
1人も失いたくない、全員天の御国へ呼びたい!満身創痍のままハデースへ直行する愛です。
ヘブル語の話ですが、最初に紹介した「愛」アハヴァは、名詞よりも動詞の方が圧倒的に多く使われています。何故かというと、ヘブル語では愛を抽象的概念として考えない。むしろ生きた、動的なものとして考える傾向があるからなのです。
それはマタイの20章で、ぶどう園で働く者を朝早くから夕方の5時まで雇いまくった主人の姿です。
彼は自分の利益の為に、そんな人員の、給与の、無駄遣いをしたのではありません。雇いたい!つまり救いたいと思った上の行動です。
それはマタイ22章で、自分の息子の結婚披露宴を計画した王の姿です。
誘い続けた招待客に断られても、再度招待して、それでも断られると、今度は出会った人を手当たり次第招きまくる王です。良い人も、悪い人も招かれたんですから、もしかすると招きを2度断った人も、みたび招かれている可能性すらあります。
この世界の価値観では、理解しかねる姿です。でも、これが愛です。
イエスは弟子たちの足を洗いました。これは召使いでもなく、奴隷の仕事です。
イエスはペテロが3度も自分を知らないということを知っていました。それはユダがイエスを引き渡すのに匹敵する位の精神的裏切りです。にも関わらず「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。」と言われるのです。
イエスは、汚れていると考えられていた人たちと同じ席について、同じパンをちぎって、同じスープに浸して食べました。
すべて、相手に関心があり、相手を大事に思っていなければ出来ない行為です。
御大切と訳された「愛」
広辞苑で「御大切ごたいせつ」と調べると、「キリシタン用語、愛」と書かれています。
戦国時代に日本に来た宣教師たちは、まさか『love』に相当する言葉がないということで随分困ったでしょうね。
そこで『愛』を説明するのに「カリダアデ」というポルトガル語を、そのまま使ってみたりもしたんですが、彼らが着目したのが、「ご大切」「大切に思ふ」という和語でした。
当時のどちりな きりしたんというキリスト教の教理書;(ポルトガル語でDoctrina Christã)には
「一には、ただ御一体のでうす(創造主)を万事にこえて、御大切に敬ひ奉るべし。二には、我身のごとく、ぽろしも(隣人、他者)を思へという事是なり」
とあります。
ここで言う大切とは単なる感情ではなく、相手を大切に扱うという行動を伴う姿勢を意味するのです。
今更、出回っている『愛』という言葉を『ご大切』と言い変えてしまうと大変な混乱が起こりますが、心の中で「大切」「大事」に置き換えると、もっとしっくりくるんじゃないかなと思います。
愛ってなんだ
漢字やイエス様の行動を通して「愛」を考えてみました。
「愛」という言葉はあまりに裾野が広い上に、使い古されて軽薄に響くこともあります。人によってはやはり、聞くと”恥ずかしい”と感じてしまうこともあるかも知れません。
でも、聖書の訳で「信仰」とあるところの多くを「信頼」と解釈した方が分かりやすいように、「愛」を、例えば全てではないにしろ、
わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに大切にし合いなさい。わたしがあなたがたを大事にしたように、あなたがたも互いに大事にし合いなさい。お互いを大切にするなら、それによって、あなたがたが私の弟子であることを、すべての人が認めるようになります。
ヨハネ13:34-35(私訳)
にした方がシックリ来ないでしょうか。
私たちを作られた方は、私たち以外にも、星の数以上の物を作られたにも関わらず、私を、あなたを、一人一人を大切に思って、大事に扱って下さっています。
『愛』というのは、相手を大切に思い、関心を持ち、敬い、大事に取り扱うことなのだと考えると、神様の『愛』がもっと身近に感じられるのではないかと思います。
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