8月29日:祈り-Ⅰ歴代誌4:9-10より-③

メッセージ

二回にわたって、Ⅱ歴代誌4章10節の、通称「ヤベツの祈り」を皆さんと読んで来ました。三回目の今回が最後です。
『御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。』という部分から学んでいきたいと思います。

私たちはなぜ、神の守りを求めるのでしょうか?わざわいとは、神の御手とは何でしょうか?
祈っている中で湧きあがる不安、疑問、そういった気持ちをどう取り扱えば良いのでしょう。

※このメッセージはYOUTUBEでも視聴できます。

Ⅰ歴代誌4:9-10

ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。そこで神は彼の願ったことをかなえられた。

Ⅰ歴代誌4:10

私たちは、なぜ神の守りを求めるのか

イエスに信頼した私たち、クリスチャンは、いつも祈りの中で、主の守りをお願いすると思います。
私は運転をするとき必ず、イエス様が一緒にいて下さって、このドライブが守られるようにお願いします。
迷子になった時は祈る余裕がなくなってしまうので、その前にお祈りしておくんですが、出来ればその渦中でも祈りたいですよね。

多くの人が神のご加護をお祈りすると思うんです。楽しく毎日が送れるように、辛いことが無いように、出来れば成功するように、出来ればいい人生が送れるように祈り求めるんだと思います。
ですがクリスチャンがお祈りするのは、私たちが神の御心に添った生き方が出来る為です。
そして、その様に生きるには、私たちがあまりにも弱いからです。

個人的な弱さに加えて、この世には沢山の誘惑もあります。

私もそうですが、ニュージーランドで主に立ち返る人が多いというのは、ある意味日本より誘惑材料が少ないからです。
24時間営業の飲食業はほぼありませんし、深夜までやっているレストランは本当にちゃんとしたレストランで、飲み放題で朝まで居座れるファミレスはありません。
カフェすら夕方3時~4時には閉まります。コンビニも深夜は閉まります。

仕事も、日本みたいに残業してまで働く、身を粉にしてまで!というのが良いというメンタリティがありません。逆に残業しないといけない働き方は、能力が無いからだと見なされますし、ちゃんと休みを取る。
まぁニュージーランド人は休みすぎに見えますけれど、それでも一応社会が回っている所を見ると、これ位で丁度いいんでしょうね。

ニュージーには日本と違う誘惑がありますので、そこからしっかりと守られますようにというお祈りは欠かせません。
神の守りを祈るのは、私たちが弱いからです。

わざわいとは

日本語では災いともともとも書きます。どれも見ていて嫌な感じです。
ヤベツが祈った「わざわい」は、どういう災いだったんでしょうか。

今年は東日本大震災から10年目で、3月のメッセージの時にも、改めて自然災害の不条理さについて考えさせられました。勿論人災の面もありますけれど、それはそれとして、すべては”偶然”ではないと、私は思います。
私たちが災害に遭う、災いに遭う理由を、人間が理解できるように、合理的に説明しようとしても無理です。
それは申命記に以下の様に書かれていることからも分かります。

 隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。

申命記29:29

私たちの限界を率直に認める謙遜さ、主の御手の中に信頼することが求められます。だからこそ、私たちは『御手が私とともにあり』と祈らないといけないのです。
隠された事柄は主の御手の中にあって、主に属する事柄だからです。

主を信頼することが求められます。

神の御手とは

わざわいだ、と聖書に書かれていることばは、新約聖書ではイエスが使われた「ウーアイ」(οὐαί)です(ギリシャ語)。マタイ23章では偽善の律法学者とパリサイ人に対してこの語彙が7回使われています(23:13, 15, 16, 23, 25, 27, 29節)
ユダに対しても使われました。

旧約聖書では「ホーイ」(הוֹי)が51回(イザヤ書で21回)、類義語の「オーイ」(אוֹי)が24回、いずれも神の悲しみや怒りが込められた言葉として使われています。
わざわいとされる事柄の中に、イザヤ書5:12『彼らは【主】のなさることに目を留めず、御手のわざを見もしない。』があります。

また、あなたの民イスラエルの者でない外国人についても、彼があなたの大いなる御名と、力強い御手と、伸べられた腕のゆえに、遠方の地から来て、この宮に来て祈るとき、あなたご自身が、あなたの御住まいの所である天からこれを聞き、その外国人があなたに向かって願うことをすべてかなえてください。そうすれば、この地のすべての民が御名を知り、あなたの民イスラエルと同じように、あなたを恐れるようになり、私の建てたこの宮では、御名が呼び求められなくてはならないことを知るようになるでしょう。

Ⅱ歴代誌6:32-33

ヤベツが祈った時、祈りの保証になるのはこの『神の御手』です。私たちは「イエスの名によって」お祈りしますが、それと同じです。
ご自分の民だけでなく、外国人の祈りさえ聞き入れて下さる、力強い御手、伸べられた腕なのです。

エレミヤ書では、神の御手は陶器師に例えられています。

粘土の様に、小さな石ころを取り除かれること、柔らかくなるように練られること、窯の火で焼かれるという過程を通して、私たちは素晴らしい神の作品になって行きます。
その御手が、共にいて下さることがヤベツの祈りの担保でした。

苦しむことのないようにしてくださいますように

最後にヤベツは大胆な祈りに出ます。
「苦しむ」という彼の名前とは正反対の事です。(ヤベツは「悲しみ」とか、「苦しみ」という意味)

ヤベツは苦しみを避けたいと願った、というよりも、もはや苦しみは避けようがありません

これ以上悲しみとか、苦しみという名前で呼ばれたくない!新しい名前、もっといい名前で呼ばれたい!
ヘブライ語だったら、良いgoodという意味のトーヴとか、自分の名前の真逆がいいわけです。

そこで神はどうされたのかというと、一言
>そこで神は彼の願ったことをかなえられた。とあります。
かなえられたのです!
ですが、”そして別の名前になった”という様な記述はないことから、彼の祈りが聞き届けられたにもかかわらず、一生の間「ヤベツ」という名前で呼び続けられました。

それはきっと、この名前こそが主の御手に支えられたことの、証しとなったからではないでしょうか。

祈りは聞かれている ー悩んでもいいー

イエス・キリストに信頼している私たちは、自分の祈りが主に聞かれていること答えられることを知っています。それは、信頼する人だけが頂ける特別な恵み、特別な祝福であると思います。

祈っている中で、揺れることって絶対にあります。ヤベツだって揺れたでしょう。
これは自分の欲望なんだろうか・・・、この状況はもう、そのまま受け入れた方が良いのではないだろうか・・・と、迷ったり悩むことは別にいいのです。
それは決して不信仰・不信頼ではありません

13年間の療養生活をされた、作家の三浦綾子さんも、「何としてでも治りたい!」と祈り続けた一人でした。

その当時肺結核は伝染性の高い、不治の病で、特効薬もありませんでした。彼女はこの他にも、結核、脊椎カリエス、心臓発作、帯状疱疹、直腸癌、パーキンソン病、最後は多臓器不全で亡くなるという、生涯病を背負い続けた人でした。

病気というのは、病気そのものの不安に加えて、家族関係、経済的にも、様々な大きな不安をもたらします。
三浦さんもその不安に押しつぶされそうになりながら
「神よ、どうか、御心にかないますならばこの病気をお癒し下さい」
と祈り、牧師や信仰の兄弟姉妹が訪ねて来ては、祈って下さったそうです。

それは彼女にとても平安をもたらしました。

でも。1年も経った頃、ふと三浦さんは疑問に思ったそうなんです。
”病気が治るように、という祈りは、一体本当に自分にとって何よりも大事な祈りなのであろうか”という疑問です。

病気には誰もが掛って、そして治って行きます。そして、どんな人も病気が治ったとしても、またいつか病気になり、最後は死にます。
病気以前の自分に只戻るだけなら、病気というものは自分にとって、単にマイナスの期間があったというだけのことになるんじゃないだろうか、と。

せっかく病気になったのだから、治る努力をすると同時に、死について考えそして、生について考えようと思ったそうです。

全ての人がいずれ死んでいくのですが、その過程で何を胸に抱いて行くのか
病気が癒えなかった、孤独で悲しかった、お金が足りなかった、死ぬのが怖い、そういった事なのか、それとも、神の真実に安らぐ望みなのか・・・。
祈りの過程で私たちは神の御心を聞いていきます。祈りは過程こそが重要なのだと思います。

主は私たち一人一人に、違った形での祝福、違う人生、違う平安を用意して下さっています。だから、自分の人生と人の人生とを比べるべきではありません

どうか、あなたのしもべへのみことばのとおりに、あなたの恵みが私の慰めとなりますように

詩篇119篇76節

私たちは祈りなしでは、主の御心の通りに生きることが出来ないほど弱い者です。そこで謙虚に主を呼び求めるのです。

自分自身の日々のあり方を導いて頂けますように、主の望む生き方をしたい!という祈りが、祈りによって出来ますように。
どんな祈りも、主の前に小さすぎるという事はありません。

詩篇の作者の様に、主が与えて下さる良い物に全幅の信頼を寄せましょう。
ヤベツの様にあきらめず不可能を可能にして下さる主に信頼して祈り続けましょう

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