2月21日:病いの癒しのための祈り1-全能者への信頼-

メッセージ

天地の造り主に、病気が治るように真剣に祈ったことはおありでしょうか。
癒しに限らず祈りに果たして応えていただけるのかと、 不安を感じていませんか?!
どうして答えられないのか。どうしたら、祈りが応えられるのか、何が必要かなど、共に考えてみましょう。大胆に祈りましょう!

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。
そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。

マタイ28:16-17

弟子たちはここでイエスに会う前、何度も実際に会い、一緒に食事も共にしています。(ルカの福音書、ヨハネの福音書に詳しく書かれています)
にも拘らず疑っていた人もいたのです。しかも、何人も!
その弟子たちをイエスは責められます。

その後イエスは、十一人が食卓に着いているところに現れ、彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった。よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを、彼らが信じなかったからである。

マルコ16:14

不信仰、とある訳は『不信頼』という意味です。
ここで彼らを責められたのは「見た人たちの言うことに信頼しなかったから」です。
もっとわたしに信頼して欲しい頼って欲しいとイエスは思われています。

こんな、最初から最後まで不信頼な彼らに、宣教の命令を出したのです。

『奇蹟』の勘違い

これを見たペテロは、人々に向かって言った。「イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。

使徒の働き3:12

ペテロとヨハネがエルサレムの”美しの門”で、生まれつき足の不自由は男を癒した際、人々はこの2人の力が男を治したのだと思い、彼らの方に一斉に駆け寄ってきたのです。
これは奇跡の勘違いです。
どこから来た力なのか、どこからの権威なのか、私たちははき違えてはいけません。

祈りが答えられないと思うこと

私たちは、祈りが聞き届けられない!自分の祈った通りの答えが頂けない!と感じる時、何を思うでしょうか。
信仰が足りないのでは…もっと信心しなければ…。
私の敬虔さが足りないのでは?!等、色々な足りなさを思います。しかしそうではないのです。

使徒の働き3章16節で、何が奇跡を起こさせたのか説明しています。

このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。

使徒の働き3:16

繰り返しになりますが、この2回出てくる『信仰』は『信頼』とした方が良い言葉です。
主語は『その名を信じる信仰信頼のゆえ』です。

行いのない信仰、死んだ信仰、悪霊どもの信仰

あなたは、神を唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。
ああ愚かな人よ。あなたは、行いのない信仰が無益なことを知りたいのですか。

ヤコブの手紙2:19-20

愚かな→虚しい、空っぽの
無益→死んでいる

悪霊どもは霊ですから、霊の世界の序列関係は良く知っています。当然、自分たちより唯一の神の方が上だという事は承知しているのです。
その悪霊ほどの信仰も、人間は持っていないかも知れません。
悪霊は100%神を信じ、知っているのですから。

では何が私たちと違うのでしょう?
それは、悪霊どもは知ってはいても『信頼』していないのです。彼らは神に頼りません。
最後の審判の際に自分がどうなるか、それは知っているのですが、神に憐れみを求めません。イエスに絶対に頼りません。
それが悪霊どもと私たちの大きな違いです。

行いのない信仰は死んでいる

からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。

ヤコブ2:26

先のヤコブ2:20も参照してください。
私たちはバッテリーを積んでいないのです。走り続ければ自然と充電されるわけではありません。
神から断たれたら止まってしまうのです!

これらを踏まえて、癒しについて考えていきましょう。

祈りは病む人を回復させます

信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。

ヤコブの手紙5:15

ここでも信仰は『信頼』と訳すのですが、この場合は『信頼』です。

ですから、あなたがたは癒されるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。

ヤコブの手紙5:16

『ですから、』は原語に入っていません。
正しい人(2017年度版)、義人(新改訳第三版)とは、イエス・キリストの義を着ている人信頼している人のことです。
何か特別な、強い信仰の持ち主というわけではありません。

17節でエリヤの例を出して説明しています。
エリヤは私たちと同じ人間でしたが・・・というように、バアルの預言者450人、アシェラの預言者400人対1人で祈りに勝利したあのエリヤも、同じ人だと強調しています。

そんな凄いエリヤも、雨を降らせる時は7回、必死の祈りをしました。
地にひざまずいて自分の顔を膝の間にうずめる姿勢というのは、出産のときの姿勢だそうですが、こうした苦しい姿勢で、主に答えられるまで、「熱心に」祈ったのです。

祈りが答えられない時

必死に祈っても、祈っても、祈りが実らないと感じることはあります。

そんな時どうするでしょうか?
不公平だと不満をぶつけますか?失望して、怒りが湧いて、なぜ、どうしてという疑問も持ち上がり、今までの信頼が揺らぐような気がしてきませんか?

それは、『奇蹟は起きて当然だ』という勘違いをしているのではないでしょうか。


400、400、1900という数字が何だかお分かりですか?
最初の400は、イスラエル人がエジプトで奴隷として苦しみ続けた期間、400年です。紀元前1440年頃モーセが彼らをエジプトから導き出したのです。
そして次の400は旧約聖書から新約聖書までの間の400年です。この間、目立った”しるしとしての奇跡”はなかったのでしょう。
大きなブランクです。


最後の1900年は、全世界に散らされたユダヤ人がその純粋性を失うことなく、1900年ぶりにイスラエルという国を建国した数字です。
実に長い期間、イスラエルの人々は主に叫び、嘆き、求めました。しかしその祈りは、1900年間聞かれているとは思えなかったのです。少なくとも、当時祈っている人にはそう感じられたでしょう。

それでも私たちは主権を神にお任せし、委ねることが大事です。
癒されないまま、そこに主の恵みの深さ、主の完全な力が現れて下さることをも経験しましょう。

祈っても病が治らない経験

その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。
この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。

Ⅱコリント12:7-8

パウロは他人を癒せるほど、癒しの賜物があった人です。その彼が自分の体の”とげ”は癒せなかったのです。
ですが、その答えが次の9節にあります。

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

Ⅱコリント12:9

必要なのは全能者

全能者へ信頼して祈りましょう。
神はすべてを益として下さいます。そして、霊、たましい、体が健全になるように祈りましょう!

※詳しい音声、動画はこちらより。パスワードは webcha です。

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