イエス・キリストに選ばれた弟子たちも、実は3年半のイエス様の公生涯の初めから最後の最後まで、「信仰のずれずれ」のままでした。私たちはどうでしょう。
その現実を知らないと聖書を正しく解釈できないでしょう。
イエス様が願っていることと、私たちが求めていることがズレていたら、求めても答えられないのです。
「信仰ではなく、信頼です。」
早めに気づいて、求める必要のないものは、気にせず、求めるべきものをしっかり求め与えられて、喜びを持って過ごしましょう。
救いに不可欠なもの
どうしたら私たちは、すべての罪を赦されるのでしょう?その土台、拠り所は何でしょうか?
それは前々回もお話したように、『父に信頼し続け、救いを完成されたイエス』に信頼することです。
十字架の完成された救いの御わざと血潮に、信頼することです。
私たちが『義』と認められたのも同じく、イエスに信頼する、それだけです。努力も高徳も犠牲も要りません。
更に加えるならば、私たちの信仰も関係ありません。信頼なのです。
完成された救いに信頼することが、とても大事です。
イエスの信頼によって
マタイ17:19、20の問題
マタイ17:19では、悪霊を出だせなかった弟子たちがイエスのもとにそっと来て聞いています。「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか。」
ここでイエスが答えられたのは「あなたがたの信仰が薄いからです」ということですが・・・やはりここでは信仰の度合いが問題になっているような気がしてしまいます。
違うのでしょうか?!
ギリシャ語の原語では意味合いが違います。
「信仰が薄い」ではなく、「信仰」の「否定」であり、「無信仰」と言う意味なのです。
また、信仰は『霊的な能力』という考え方もあったようです。なのでルカ17章で弟子たちは、自分たちの信仰を増し加えてくださいというお願いをしたのでしょう。
弟子、私たちのようなlearnerは、信仰を強められる必要はありません。
もし「からし種」ほどでも信頼があれば、山が動くとイエスは言われました。
ちなみにイエスが言われた「山」はオリーブ山のこと。海に植わると言われた「海」とは死海のことです。
イエスの言葉はとても挑戦的ですね!
ゼカリヤ14:3~4には実際に動く様子が書かれていますから、時が来れば山は動くのです!私たちもその時は目撃者になれることでしょう。
不可欠なのは信仰?能力?
この聖句でわかるのは、霊的能力も、成果も、結果も求められていないという事です。
宗教ではないのです。
「全然知らない」というのは、「いつのときも、あなたを知らなかった」という意味です。
不可欠なのは、神とのイエスとの個人的関係です。信頼関係なのです。
勿論、イエスが力を授けて下さるときもあります。以下の聖句がその例です。
しかし弟子たちの信仰と私たちの信仰を足しても、ゼロです。イエスの信仰のからし種ほどにもならないのです。
信仰の強さを問題にするのは”宗教”、”キリスト教”、”サタンの騙し”です。
問題が起こり、良い結果(自分の望む結果)が出ないと「信心が足りない!」と自分を責めるのです。または、異教の教えと聖書を混同したり、当てはめたり、継ぎ足したりして考えてしまいます。
信仰は、人間側の信心深さ、意志の強さなどに重点が置かれています。
信頼は、信頼する対象に重きのすべてが置かれているのです。
明日のこと、将来への信頼
私たちには、イエス・キリストが共にいます。
信仰が薄い、信仰が乏しい人たちに向かってイエスは、「まだわからないのですか」と言われています。
弟子たちが3年半で学んだこと
信仰でなく、イエスへの信頼が不可欠なのです!
ぜひ、イエス・キリストへ信頼していきましょう。
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