2月7日:断食の嘘ホント-隠れたところで-

メッセージ
聖書的な断食とは?!

「この種のものは、祈りと断食によらなければ、追い出せません。」とイエス・キリストがおっしゃっていますが、「断食」は不可欠のもの?
「食物を断つことを命じるのは、悪霊の教え」ともあります。私たちは、どのように断食を受け止めていったら良いのでしょうか?

昔からある、断食の効果

例えばフランスには「断食はメスを使わない手術である」、ドイツには「断食で治らない病気は医者でも治せない」という諺があるのだとか。ベンジャミン・フランクリンでさえ「すべての薬で一番良いのは休息と断食である」と言ったそうです。

むくみ、肌荒れ、花粉症、高血圧、冷え症など、様々なことに断食および、プチ断食は効果がある様で、なるほど聖書でも勧めているのかと思ってしまいます。がしかし、イエスが話されているのは断食で健康になろう!という話では全くないのです!

聖書に書かれている「断食」を考察する


イエスが断食について話されたのはマタイ17章です。ただしここで言われているのは上記のような、健康に関することとしてではありません

ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。

マタイ17:21(注釈)

断食:νηστείας(ネースティア)
新約聖書では名詞として8箇所、動詞として16箇所出て来ます。
ヘブル語ではצוֹם(ツォーム)といい、旧約聖書ではイザヤ書58章に多く出て来ます。意外にもモーセ五書には登場しません
しかし近年では「断食」を取り除いてしまっている聖書も増えて来ました。

その要因として考えられるのは断食=苦行という、中世キリスト教界の禁欲的かつ過剰な実践の悪評が、定着していること。また1日3食とお茶を摂らないといけない!というプロパガンダが現代人を教育してしまっています。食べることへの異常な執着、食べないと不健康になる!という考えが蔓延してしまっているのです。

断食の誤解①:欲

自分の食欲、及び色々な欲を断つことで信仰を強める、という考え。
これは修行や修業、苦行の感覚ですが、聖書でこれを勧めている訳ではありません。以前もお話したように、自分の努力によって信仰を強める、がそもそも間違いなのです。

断食の誤解②:祈り

自分の熱心な祈りの姿で神を動かし、祈りの答えを頂く、という考え。
何と不遜でありましょう。神は祈りの姿勢ではなく心を見ていらっしゃいます。また、Ⅰヨハネ5章には、どのような願いがかなえられるのか、具体的に書いてあります。これを読むならば、断食によるのではないことが分かります。

何事でも神のみこころにしたがってね願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。
私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。

Ⅰヨハネ5:14~15

断食の誤解③:能力

断食をすればするほど、より自分の能力が研ぎ澄まされ、特殊能力となっていく!という誤解があります。
神秘主義者、現代のニューエイジを信奉する人たちも、神秘的なビジョンを見る為に断食をしました。確かに過激な断食で幻を見ることもあるでしょうが、幻覚は幻覚です。神のことばではありません。

断食の誤解④:命令

断食をするように、聖書が命じているという人がいますが、それは寧ろ逆です。どこにもそんなことは書いてありません!

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。
それは、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるものです。
彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。
神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。

Ⅰテモテ4:1~4

実は、古代異教徒の多くが、食べ物に悪霊が憑き、それを食べると一緒に体に入ってくると信じていたのです。その為、断食をしました。

断食の誤解⑤:回数

ルカ18章を読むと、当時のパリサイ人は週に2度の断食をしていたことが分かります。

パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。
『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を捧げております。』
一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。』

ルカ18:11~14

パリサイ人たちは何故、週に2回の断食をしたのでしょう?その回数はどこから出て来たのかと言うと、モーセが十戒の板を受け取るためにシナイ山へ2度登った、そこへ由来しているのです。
そして断食は火曜日と木曜日にしたのです。
その日は市場が開く日で、多くの人が買い物をしに出て来た日でもありました。わざわざ人ごみに足を運び、大勢の人に断食をしている自分の姿を見せる、絶好の機会だったのです。

義とはどこからくるでしょうか?
断食を守れば頂けるのでしょうか?
違います。義は、イエス・キリストの十字架と復活から来るのです。イエスの義だけが、私たちの信頼する土台です。

断食の誤解⑥:結果

『なぜあなたは、
私たちが断食をしたのに、ご覧にならず、
自らを戒めたのに、
認めてくださらないのですか。』
見よ。あなたがたは
断食の日に自分の好むことをし、
あなたがたの労働者をみな、追い立てる。
見よ。あなたがたが断食をするのは、
争いとけんかのためであり、
不当に拳で殴るためだ。
あなたがたが今のように断食するのでは、
いと高き所に、その声は届かない。

イザヤ58:3~4

食欲と戦い、不平不満が多くなり、やるべきこともやらず、へりくだりもせず、使用人にしわ寄せがいく。そういった断食に結果、神の答えが得られると思っていたら大間違いだというのです。
更にその後5節にはこうあります。

断食の誤解⑦:儀式と形骸化

わたしの好む断食、人が自らを戒める日とは、このようなものだろうか。
葦のように頭を垂れ、
粗布と灰を敷き広げることなのか。
これを、あなたがたは断食を呼び、
種に喜ばれる日と呼ぶのか。

イザヤ58:5

本来、人が身を戒める日=主の好む断食とは年に1回でした。
聖書暦第7の月(ティシュリの月)の10日目の大贖罪日です。出エジプト記30:10、レビ16:2~20、レビ23:23~32、レビ25:9、民数記29:7~11等に詳しくあります。
この月は1日がラッパの祭り、大贖罪日を経て、15日から仮庵の祭りがあります。

断食の誤解⑧⑨:外面的/偽善

当時、断食をしている人は弱々しいメイクをわざとしていました。古い、汚れた衣をわざと来て、チリや灰を被り、いかにも断食をしている!というような格好でいたのです。
断食をしていることを人々に誇るためでした。
敬虔に見えるように演じ、自分を卑下した格好をしました。例えば、上記の他にも、ヒゲ剃り禁止、服を洗うの禁止、油を塗るのも禁止という規則が作られました。
これは偽善です。

正しい断食①:父なる神との、密かな断食

断食をするときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
それは、断食をしていることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるようにするためです。そうすれば隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます。

マタイ6:17~18

断食の真の目的は、神に向かうことです。霊的な献身なのです。
個人的なことなので、人に悟られないようにきちんとした身なりをしていなさい、というのです。個人的な密かな断食と祈りは、神様との親密な関係を深めます。

神は断食を禁止してもおられません。教会時代には、沢山の断食の記録があります。
旧約聖書にはモーセ、サムソン、サムエル、エリヤ、ハンナ、ダビデ、エリヤ、エズラ、ネヘミヤ、エステル、ダニエル他多くの人々が断食をした記録ありますし、新約聖書でもアンナ、バプテスマのヨハネとその弟子たち、イエス・キリスト、パウロ、他多くの人たち、聖徒たち。

また、Ⅱコリント6:5やⅡコリント11:27を読むと、やむを得ない状況での断食もあります。

正しい断食②~聖書に見られる正しい断食の例

②悲しみ、悲観、悔恨として食べられなくなる
③深い罪の自覚と恐れを持って神に近づく
④罪の赦しを求め、神に立ち返るため
⑤祈りに専念するため、結果的な断食
⑥大きな戦いの前に
⑦御心を求め、主の導きを求めるとき
⑧悪霊どもを追い出す前
(マルコ9:29)

すると、イエスは言われた。「この種のものは、「祈りと断食によらなければ、何によっても追い出すことができません。」

マルコ9:29

霊的階級が上の悪霊と戦う場合、長引く霊的な戦いには「断食と祈り」が不可欠でした。

⑨大切な決定、行動の前に
イエスは公生涯の前に40日40夜の断食をされました。
それはサタンとの霊・魂・体の戦いの勝利のために必要でした。3年半後の十字架の苦難に向かうためにも、必要だったでしょう。

⑩積極的に人のために生きる為
愛の積極的実践で生じる断食があります。

わたしの好む断食とはこれではないか。
悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、
虐げられた者たちを自由の身とし、
すべてのくびきを砕くことではないか。
飢えた者にあなたのパンを分け与え、
家のない貧しい人々を家に入れ、
裸の人を見てこれに着せ、
あなたの肉親を顧みることではないか。

イザヤ58:7~8

愛の実践は、断食の祝福です。
私たちが人のために何かすることによって、自分が苦しむことになるのです。
食物のみならず、自分の身を戒める(人のために時間を使ったりするetc.)ことは、主の喜ばせますとイザヤ58:13にあります。
断食だけではなく、何事も主の視点を中心として考えて行きましょう。

※より詳しい音声と動画はこちらより。パスワードは webcha です。

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