前回「選びと救い」についてお話ししました。
「イエス・キリストを信じれば、誰でも救われる」つまり永遠のいのちが頂けるという「救い」について特化して話しましたが、今回はそのさらに先、救いを頂いた後について『救い、その次の一歩』と題して考えてみたいと思います。
救われたはずなのに、自分はちっとも変わっていないのではないか、むしろ信仰が後退しているのでは、こんな事では、せっかく頂いた救いが取り去られるかもしれない?!
そんな悩みを払拭しましょう。
アダムの罪の結果
アダムとイブが、神がたった1つだけ定められた律法、「善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」創世記2:17を破った時から、人は死ぬことが定められました。
しかし、アダムが実際に死んだのはこの宣告がなされてから930年後です。
アダムは即死していません、何故でしょうか?
それは、この「死」が肉体の死だけを意味するのではなく、「霊的」な死をも意味するからです。その意味では、アダムは霊的に即死したのです。
私たちはどんな状態なのか?
まことに、まことに、あなたがたに言います。死人(たち)が神の子の声を聞く時が来(てい)ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。
ヨハネ5:25
この”死人たち”とは、死の支配下にある全ての人のことであり、既に死んだ人の事だけではありません。イエスはここで、私たちも霊的には死んでいるとハッキリ言われています。
それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません
ヨハネ5:40
ここでは、”いのちがない”とも言われています。
パウロもエペソ2:1で「生まれながらの人」は死んでいると書いています。すべての人が世に生まれ出てきた時すでに霊的には「死んでいる」のです。
霊的に死んでいる状態は永遠の死、「第二の死」へとつながります。イエス・キリストを信じた者は、その死を免れた者たちなのです。
その自覚を持ち、またその喜びと重要性をこの福音の時代に、少しでも多くの人に伝えて行きたいですね。
救いー義認ー
神が私たち罪人を、まだ罪を持った状態にもかかわらず、義、つまり無罪!と宣言して下さることが”義認”です。
なぜそんな事が可能になったかと言えば、キリストが私達の罪のために十字架にかかり、罪の贖い(買い戻し)をして下さったからですし、すべての人は、誰でも、イエス・キリストを信じた瞬間に、この「義認」の恵みを、神から受けることができます。
すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。
ローマ3:22
ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました。
Ⅱコリント5:17
そのステップ、方向転換には①知識(ローマ10:14~17)②同意③信頼が必要でした。
罪を自覚し、そこからの方向転換(悔い改め)と神への方向転換(信仰)。たったこれだけです。
義認の条件については、ローマ3:27~28、ローマ4:2、ガラテア2:16、エペソ2:8~9に、一貫性を持って書かれています。
したがって、義認には行いが関係なく、信仰のみによる、というのは真理なのです。
さて、救いを受けて新しいいのちを頂いた私たちの、一生続く次のプロセスとは何でしょうか?
聖化
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネ3:16
この聖句が表しているのは、救いは常に「神の恵み」とそれに応答する「人間の側の信仰(信頼)」によって完成することです。
そして聖化とは、義認を受けた、イエス・キリストを信じたクリスチャンが、聖霊の働きにより、徐々にキリストの似姿へ造り変えられていくことです。
私たちの内側には、義認を受けても罪はまだ残っているので、その後の地上での生涯全体を通して、このプロセスはなされていきます。
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
Ⅱコリント3:18
ですが、クリスチャンになった後で、聖書をなかなか読めない…集会に出られない…人に優しく出来ない…むやみにイラつく…なのにお祈りもなかなか出来ない…ふとした時に、昔の自分に戻ってしまった様に感じる…こんな経験のある人も多いのではないでしょうか。
もしかしたら、あの時の、あの言動が原因で、あんな気持ちが原因で、せっかく頂いた永遠の救いからも離れてしまったのではないだろうかと、不安になっている方もいるかも知れません。
もう、イエス様は私なんか見放して、他の新しくクリスチャンになった人の隣に行ってしまったかもしれない?!
ここからは、救いは本当に一生モノなのか、ということについて考えてみましょう。
救いの永遠性(救いの保証)について
これはどういう事かというと、「過去のあの時点で信じた。それを以てその後どんな生き方をしても永遠の命は保証されているのか、どうなのか」という事です。
結論から先に言います。永遠のいのちは、決して取り去られることはありません。
救いは永遠に保証されています。
しかし、自分から決心して「救いの条件から外れよう」とすれば、外れることは出来ます。
死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
ローマ8:38~39
ここでの「死」「いのち」は、「霊的な死といのち」のことである、ということは、ローマ人への手紙8章を通して読むと分かります。一度信じた人が神から裁かれることがはない、ということを示す重要な箇所です。
こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
ローマ8:1
KJV(ビザンチン型テキスト(TR)を底本)では次のことばが加えられています。
There is therefore now no condemnation to them which are in Christ Jesus, who walk not after the flesh, but after the Spirit.
”キリスト・イエスにある者”の定義が、”肉にではなく、霊に従うキリスト・イエスにある者”となります。
そうです、救いは永遠に保証されています。
そうでなければイエス様の、たった一度の十字架での罪の贖いには意味がなかった、他にも何かが必要なんだ、という事になってしまいます。
救いが永遠ではない、と取れる聖書箇所
一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者になって、神のすばらしいみことばと、来るべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません
ヘブル6:4~6
もし私たちが、真理の知識を受けた後、進んで罪にとどまり続けるなら、もはや罪のきよめのためにはいけにえは残されておらず、ただ、さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を、恐れながら待つしかありません。
ヘブル10:26~27
読んでわかるように、”進んで罪にとどまり続けるなら、堕落”なのです。
同じへブル書の9:28には、キリストが二度目に来られるときには、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださるとあります。2度目に来られるときにはもう、誰にでもではなく、待ち望んでいる人のために来られるのです。
パウロでさえ悩んでいた”罪”
私には、自分のしていることがわかりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。
ローマ7:15
私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。
ローマ7:19
もう、ここだけ読むと絶望的な感じすらしてきます。ほとんどのクリスチャンが、イエス様を信じた後もこういう状況に陥っていると思います。
やっぱり救いは永遠ではないのではないか・・・いや、救いは永遠であるけれども、その救いを私は受け取れないんじゃないか、そう思うかもしれません。
ですが、このすぐ後でパウロはこう書いています。
私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
ローマ7:25
これらから分かることは、①パウロは依然、罪にとどまり続けていること。しかし②パウロの状況(悪を行っています)は「堕落している」には当たらないということです。
そもそもですが、『行為によって堕落かそうでないかを判定しようとする』と混乱します。(これをやったら堕落、あれをやったら堕落、そちらは大丈夫、の様に)
そこで原義に立ち戻ってみると、「堕落する」という日本語訳が充てられている語は「脇に落ちる」ということなので、「救いの条件から外れる」という語そのもののほうが近いのです。
罪との関係でいえば、「進んで」罪にとどまり続けることです。
ヘブル書10:26の「進んで罪にとどまり続ける」というのは同6:6の「堕落してしまう」の言い換えであるとすると、つまり、自ら決心して救いの条件から外れた状態でいることが堕落なのです。
まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものと見なし、恵みの御霊を侮る者は、いかに重い処罰に値するかがわかるでしょう。
ヘブル10:29
しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。
マルコ3:29
ちょっと不安なあなたへ
「救いを失う」ことがあると聞いて心に平安を保てない方がいるかもしれません。
聖書には確かに、救いを失う可能性がある、ということが書かれていますが、それは必ずしもローマ書に書かれている救いの永遠性と矛盾しません。
上記の聖句を読むと、やはり私は大丈夫だろうかと心配になってしまうかもしれません、しかし以下にこうも書かれています。
しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
ローマ8:37
私達は神の国の兵士として「圧倒的な勝利者」(ローマ8:37)で、敵軍に捉えられることはない。(ローマ8:39)ともあります。
神の国の兵士であっても自ら”進んで”敵軍に投降することはありえます。
この書が書かれた当時、ユダヤ教へ再改宗する人、ローマ皇帝崇拝へ走る者もいたようで。そのような者は再び神の国には入れないと言っているのです。
救いとは神の恵みと、それに応答する私たちの側の信頼、そしてその保持も必要であることを、聖書は一貫して述べています。
その助けをも、神は備えてくださっています。
恵みによって私たちを義とするだけでなく、信仰を保ち、生きるために必要な力をも、豊かに完全に与えて下さっていることがヘブル書を読むと分かります。
したがって、イエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に(永遠に)救うことがおできになります。
ヘブル7:25
大事な真理1
例え3度イエスのことを知らないと否定して、呪うことまでしたペテロのように、信仰がすっかり後退してしまったかのように感じても、イエスはその信仰が無くならないように祈って下さいました。
これは大切な真理です。
信仰は神様の恵みで支えられるということです。
私たちは自分で決断して信仰を持ち、自分で信じ続けているかのように考えがちですが、実は「信仰」そのものも神様からのプレゼントであり、神様の守りの中で維持できるものなのです。
教会時代、恵みの時代の今は、私達の信仰を、内住される聖霊が守ってくださっています。
大事な真理2
もう一つの真理は、私たちが倒れる可能性もあるということです。しかし、たとえ倒れることがあっても、神様の恵みによって、愛によって、必ず立ち直ることができます。
信仰が後退しきったけれども実は信頼している人と、最初から信じていなかったのに、その素振りだけは上手な人と、自分から信仰を手放した人とは、外面的な区別はつきません。
誰が本当に救われているのか、という判断は主に委ねるべきです。
その人が主を一度、信頼したのならば、その信仰を神ご自身が守ってくださいます。
主イエス・キリストが、私たちの罪のために十字架で死なれ、死を打ち破ってよみがえって下さったからです。
主に信頼しましょう。
※詳しい動画と音声はこちらより。パスワードは webcha です。
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