8月16日:聖書的瞑想の勧め5-思いを変える-

メッセージ

「思い返す」瞑想と聞くと、皆さんは何を思い返しますか?非常に間違った「思い返し」をしている方が多いようです。
せっかく時間を取っても、聖書が勧めていない、日本人的な「思い返し」や「反省」では、マイナスになります。聖書が勧める「思い返し」ハーシャブ、チャーシャブをお勧めします。
みなさんの人生の明暗を分けるぐらい重要なことです!!

ハーシャヴ

ハーシャブとは?

ハーシャヴとはヘブライ語で、悪を企む、陰謀を図る、思い返す、考える、顧みるなどの意味があり、旧約聖書で112回、中でも詩編には17回使われています。


最初に使われた箇所は創世記15章6節にあります。

アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた

創世記15:6

壮大な主のご計画の一歩です。アブラムの子孫繁栄が約束される場面です。
詩編32:2、106:31も『認める』として使われ、他に『みなす』と訳されているところが詩編44:22、『数えられる』が詩編88:4です。

思い返す

自己反省として使われているのが詩編の77:5や119:59です。新約聖書にこれがどう書かれているかというと、ルカの福音書15:17の『我に返って』です。
この箇所は有名な「放蕩息子」の例え話です。
父の遺産を生前分与で分けてもらった男が、それを異国で散々使い果たしてしまい、その後起こった飢饉の影響もあって困窮します。17節でハッと我に返った彼は、お父さんの所へ帰ろう!と思い至るのです。

いくら反省しても悔やんでも、解決はしません。真の解決とは、思いを”父”に向けることです。そして今の惨めな自分の原因は、父の元から離れたことだと気づくことです。

Parable of the Prodigal Son:放蕩息子 ルカ15章

神に向かう、メタノイア

ルカ15章のテーマは『喜びと罪びとの救い』です。そしてキーワードは「メタノエオー(メタノオー)」です。
これは動詞メタ(別に、後で)+ノエオー(思う)で、思いを変える、心を切り替える、180度の方向転換をすることで、「回心」です。まだ主を信じていない人にとっては、軌道修正でもありません。
悔いること、改心ではないのです。

悔い改めは誤訳です。
霊魂の父、父なる神に”立ち返る”ことなのです。

いくら「悔いて」もカインの道

しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。

創世記4:5

カインは分かっていました。自分のささげ物が神の目に留まらないのは、間違ったささげ物をしているからだと。御心に背いていたのです。
しかし一方で彼は確信犯的でもありました。自分のささげ物だって、アベルのささげた羊となんら劣るところはない!と確信し、正しいことをしていると考えてもいたのです。

その怒りは不当な怒りでした。なぜ自分のささげ物は受け入れられないんだ、こんなに素晴らしいささげ物なのに・・・という自己憐憫もありました。
顔を上げられなかった原因は自分にあり、悔いてもいましたが、悔いること自体は解決ではありません。

カインとアベル 創世記4:3~

神に立ち返るのでなければ、ヨナの道

しかし、ヨナは立って、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした。彼はヤッファに下り、タルシシュ行きの船を見つけると、船賃を払ってそれに乗り込み、主の御顔を避けて、人々と一緒にタルシシュへ行こうとした。

ヨナ1:3

この短い一節に”主の御顔を避けて”が二度も出てきます。
ヨナは預言者でしたが、主に向かうどころか反対方向へ行こうとしました。心を変えても、神に向かわなければ意味がないのです。

ヨナは主の御顔を避けた ヨナ1:3

皆さんは一日の終わりに反省会をされますか?寝る前に始めると、色々考えてしまって寝付かれなくなってしまうこともあります。しかし、聖書的な反省というのは決して一日の終わりにしてはいけません。

では、いつすれば良いのでしょう?それは、「そのつど」です。
一度神に立ち返っている人は、「そのつど」微調整する必要があります。

私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

ローマ7:24~25

自分の中には良いものが何も無くとも、ただどん底から神を見上げることが大事です。寝る前には、反省会の代わりにイエス・キリストに向かい、赦しと愛を受け取り、そして感謝して眠ることが出来ますように。
それが聖書的瞑想です。

思いを神に向け、ただ感謝することを養いましょう。
※詳しい動画と音声はこちらより。パスワードは webcha です。

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