8月2日:聖書における癒し

メッセージ

今回は『聖書における癒し』をテーマに、聖書から皆さんと考えてみたいと思います。

イエス・キリストは公生涯において沢山の癒しの奇蹟を行われました。病を治される、悪霊を追い出される、死者を生き返らせることまで、実に様々な例が聖書に記されています。イエスの名の権威において、使徒たちにも癒しの力がありました。

私たちに日々降りかかる病やわざわいをどう捉えたら良いのか、現代にも癒しはあるのだろうか、聖書を通して考えてみます。

病やわずらいをどうとらえるか

癒しを考える前に、まず『病』や『わずらい』をどう捉えたらよいのか、確認しておきたいと思います。

①神の試練

「神はこの病によって、私に何か教訓を与えようとしておられる」という考えです。聖書にも確かにそう書いてあるところがあります。

訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか

ヘブル人への手紙12:7

ああ、幸いなことよ、神が失跡するその人は。だから、全能者の訓戒をこばんではならない。神は傷つけるが、その傷を包み、打ち砕くが、御手で癒してくださるからだ。

ヨブ5:17~18

わが子よ、主の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。父がいとしい子を叱るように、主は愛する者を叱る。

箴言3:11~12

だこのへブル書は、ユダヤ教から改宗したユダヤ人のクリスチャンに宛てて書かれています。1世紀、彼らはローマ帝国からの迫害を受けていたので、イエス・キリストへの信頼を失いかけていました。そして元のユダヤ教に戻ろうとして、クリスチャンの交わりに集まることを止めていたんですね。

ヘブル10章は励ましの言葉

だからヘブル10章の35節~では、『その確信を投げ捨ててはいけません。』とか『あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。』という風に励ましています。

苦しみは確かに試練ですが、人は苦しみのみによって学ぶわけではありません。もしそうなら、世界中がもっと賢くなっているはずです。

②神の罰

明らかに、行為と関連している苦痛もあります。

例えばダビデです。
ダビデは神の前に罪を犯しました。バテ・シェバという既婚女性を自分のものにするために、その夫、ヒッタイト人のウリヤを危険な戦争の前線へ送って死ぬように仕向けたんですね。結果、2人の間に出来た息子は病気になります。

ダビデの犯した罪

第二サムエル11章の2節から12章の15節までの話です。

『どうして、あなたは主のことばを蔑み、わたしの目に悪であることを行ったのか』

第二サムエル12:9

これは、明らかに神の罰によって子どもが病気になった例です。ただ、罰が目的というわけではありません。
なんでもバチが当たったと思うのは間違いです。因果応報という考えは、聖書にありません

種まきと刈り取りの法則

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。

ガラテヤ人への手紙6:7

これは元々は祝福の法則ですが、罪が入った後は罪の種も成長することになりました、だから、良い種を蒔けば良い実を、悪い種を蒔けば悪い実を刈り取ることになりますよ、ということです。
必ずしもわざわいが神の罰ではないことをイエスはルカの福音書で、当時起こった2つの事件を使って話されています。

わざわいは誰の責任でもない

ちょうどそのとき、人々が何人かやって来て、ピラトがガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた、とイエスに報告した。

イエスは彼らに言われた。「そのガリラヤ人たちは、そのような災難にあったのだから、ほかのすべてのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったのだと思いますか。そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。また、シロアムの塔が倒れた死んだあの18人は、エルサレムに住んでいるだれよりも多く、罪の負債があったと思いますか。

そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

ルカ13:1~5

大部分の人たちは、神から罰を受けて何か悪いことが起こっているわけではないのです。予期できない、説明のつかない形の苦痛がほとんどです。

③病やわずらいは神のみ心ではありません

全ての病気は、最初の人間が罪を犯す前はありませんでした。アダムとエバの罪によって呪いが人および大地にも、他の被造物にも臨むようになりました。そして、この呪いによって、人に病が来るようになりました。ですから、人の病の最初の原因はサタンです。
病やわずらいを神のせいにしてはいけません。

死と罪の根源はサタン

ただ、ここで大事なのは、サタンは私たちを支配する力はすでに持っていないということです。
サタンはキリストの十字架によって、頭を打ち砕かれ、この世を支配する実権を失っています。実は、サタンはその敗北を人間に悟られないようにすることによって、人間を支配しているにすぎません。キリストを信じる信仰の前にサタンは無力なのです。

私たちは、イエス・キリストの支配といのちの中に生きています。
今起こるすべてをサタンのせいにするということは、依然としてサタンに支配されているのと同じです。

サタンは既に敗北している

イエスの癒しの奇蹟

イエスが行われた癒しの奇跡に注目してみたいと思います。
「目の見えない人」の目が開かれたという記録は、旧約にも、イエス以降の初代教会にもありません。

イエスのされた癒し
ツァラアトのきよめ

(ちなみに、ツァラアトという皮膚病がありました。現代ヘブライ語ではらい病をさしますが、恐らくこれは皮膚病全般を指していたのではないかと思われます。
このツァラアトが自然に治ったという記述もありません。治った際にはこうしなさいという律法は、旧約聖書にありますが、実際には自然治癒はしなかったのではないかと思います。
ツァラアトが消える時はいつも主が介在されています。そこで、「治る」ではなく、いつでも「きよくなる」と表現されるのではないでしょうか。ツァラアトは、罪の象徴でもありました。)

さて、一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスについて行った。
すると見よ。道端に座っていた目の見えない二人の人が、イエスが通られると聞いて、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。


イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。

マタイ20:29~30、34節

エリヤやエリシャは多くの奇蹟を行いましたが、目の見えない者の目を開けたり、耳の聞こえない(口のきけない)者をいやしたりする奇蹟はありませんでした。
盲人を見えるようにする、という奇跡は特別なんですね。
そして、イエスがされた多くの癒しの中で、1番多いのがこの「見えない者を見えるようにする」ことでした。

詩篇に見られるメシア預言

主は目の見えない者たちの目を開け
主はかがんでいる者たちを起こされる。
主は正しい者たちを愛し 主は寄留者を守り みなしごとやもめを支えられる。
しかし悪しき者の道は、主が曲げられる。

詩篇146:8~9

イエスは目の見えない者の目を開けたり、耳の聞こえない(口のきけない)者を癒したりする奇蹟を通して、「自分こそメシアである」ということをお示しになられました。

信仰はいやしの条件でしょうか?

弟子を「薄い信仰」と叱られたイエス

癒し主であるイエスへの信頼はとても大事です。マタイの13章には、
マタイ13:58『彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。』とあります。イエスのされていた奇跡の大半が癒しだったと思うので、そこでは病気もあまり癒されなかったのだと思います。

信仰、信頼ゆえに癒された例もあります。

長血の女マルコ5:27彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
ツァラアトが癒されるルカ5:12さて、イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えた。
ツァラアトが癒されるルカ17:11~19それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」
信仰(信頼)ゆえに癒された例

やっぱり聖書に出てくる癒された人たちは、私たちよりも大きな信仰を持っていたんだ!と思うかもしれません。
でもイエスに癒された全ての人が、特別に、強い信仰を持っていたから癒された、と思うのは間違いです。
以下に少し、その例を挙げてみます。

ルカ8:26~39悪霊に憑かれたゲラサ人(信仰を表明する前にいやされた)
ルカ17:11~19いやされた10人の患者の内、救いの信仰を持っていたのは1人(しかもサマリア人)
ルカ22:50~51ペテロに耳を切り落とされたマルコスも、信仰なくいやされた。
マタイ8:5~10いやされたしもべでなく百人隊長の信仰
マルコ5:35~43いやされた娘でなく、父の信仰
マルコ5:1~12中風の患者の友人の信仰
信仰(信頼)がなくても癒された例

神は全能のお方なので、癒されるその人に信仰が無くともいやされます。

イエスは、癒す主権を持っておられました。初代教会の使徒たちも、イエスの名において癒す力を持っていました。信仰によって癒された場合でも、信仰が奇蹟の条件だとは書かれていません。

イエスがされた奇跡的な癒しと、現代における(信仰による)癒し

器質的疾患

器質的疾患、という言葉があります。
臓器や器官の組織が、機能出来ないほど破壊されることによっておこる疾患です。具体的には骨折、麻痺、先天性の奇形、切断された四肢、心臓発作、癌などです。
イエスがされた”いやし”はほぼ全てが器質的疾患のいやしでした。再発もありませんでした。

機能的疾患

器質的疾患に対して、機能的疾患という言葉があります。
心因性、メンタル的なことに原因がある身体的疾患も含めて、臓器や器官に異常がないのに、何らかの理由で正常に機能しないという疾患です。

現代にも「奇跡的癒し」といわれるいやしが幾つも聞かれます。絶対にないとは言えません。でも、それが本当に神の介入かどうか、追跡して調べる必要はあると思うのです。

信仰による癒しを”プラシーボ効果”、心理療法によるいやしとみる人もいます。期待感、自己暗示といった心理的要因があると、偽の薬を飲んでも効果があるように、いやしの集会のような、感情的に高揚した状況でしばしば脳は、この状態になるというんですね。

「信仰によるいやし」は、骨折、麻痺、先天性の奇形、切断された四肢、心臓発作等は癒した例がありません。

祈る心は、治る力

『祈る心は、治る力』という本には、プラシーボ効果では説明できない”祈りの力”について研究、説明があります。
著者ラリー・ドッシーは、「心と自然治癒」の研究における第一人者です。彼は実験を通し、また様々な実験、研究結果を精査することから、祈りには何らかの効果があることは、科学的に証明されていると結論付けました。

祈る心は、治る力

自然に治ること、超自然に癒されること

このどちらも神の手によるものと理解しなければいけません。病気になってあるいは怪我をして、そこから治ったのなら、それは神があなたに備えてくださった自然治癒力です。
薬、医師、それも自然治癒力を引き出すための助けをしてくれています。

病の癒しは今日でも可能なのか?

初代教会の時代には盛んに行われていた、イエスの名によって祈り癒されるという奇跡は、以後、消えてしまったのでしょうか?

神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒しの賜物、援助、管理、種々の異言を備えてくださいました。

Ⅰコリント12:28

あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい

ヤコブ5:14

この御言葉から、私たちには病の癒しの賜物があることを知ることができます。病の癒しの賜物は、初代教会以後に消えたのではなく、今日も変わらずあると思われます。

いつでも祈り続けるべきです

祈り続けましょう!

祈りは1度きりで良いのでしょうか?
勿論、神は完全な方ですので1度きりの祈りを聞き逃すようなことは無いでしょう。それに、”何度も繰り返すなんて、まるで神を信用していないみたいだ”と思う、控えめな人が結構多いのではないかと思います。

でも、聖書にはこう書いてあります。

いつでも祈(り続け)るべきで、失望し(続け)てはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。

ルカ18:1

この「祈る」と「失望」は未完了形の動詞なので、「続ける」というニュアンスです。例え話に出てくるのは、「自分を訴える人を裁いて、私を守って下さい」というやもめなのですが、結局、裁判官はやもめのしつこさに負けて、裁判をしてやることにするのです。

先ほど、『病やわずらいは神の罰か?』でみたダビデの例も見てみます。ダビデは病気になった息子が回復するように、必死で主に願います。

ダビデはその子のために神に願い求めた。ダビデは断食をして引きこもり、一晩中、地に伏していた。彼の家の長老たちは彼のそばに立って、彼を地から起こそうとしたが、ダビデは起きようともせず、彼らと一緒に食事をとろうともしなかった。

Ⅱサムエル12:16~17

7日間断食を続けるのは相当なことです。結局7日目にその子は死んでしまいます。家来たちは当然、そのことをダビデに告げるのを恐れます。あんなに取り乱して必死に祈っていた王が、もし死んだことを知ったらもっと悪いことになるかも知れないと思ったんですね。

しかしダビデは息子が亡くなったことを知ると、

ダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、衣を替えて主の家に入り、礼拝した。そして自分の家に帰り、食事の用意をさせて食事をとった。

Ⅱサムエル12:20

家来たちもびっくりです。どうしてそんなことが出来るんですか?亡くなってしまったんですよ?というわけです。

しかしダビデの祈りの目的は息子を憐れんで助けてもらう事でした。それが叶わないのは主の御心にそぐわないお願いだったからだという事も理解していました。
ダビデはある意味、自分の願いがどこまでであるべきか、神の領域はどこからか、わきまえていたのではないかと思います。

私たちの神への信頼はどうあるべきか?

神の計画は完全です

聖書の神は今も生きています。 
病気になった時、パウロのように「いやして下さい」と祈るべきです(Ⅱコリント12:8)。自然のプロセスを通して、又は超自然的な力を通して、主はいやされる方です。
主はご自分の民の協力した祈りにしばしば答えてくださいます。クリスチャンの兄弟姉妹にも祈って貰うべきです。

ただし私たちが、神の御心をすでに理解していると思い込んでしまうことは問題です。自分の判断で神の御心を限定してしまうことのないように注意しないといけません。

結論

病やわずらいは神のせいではなく、サタンによって引き起こされた原罪にあります。
神からの試練や罰ではありません。


癒しや、癒しの賜物は今日にもあります。
それは自然治癒という形でも、超自然的に癒されるという形でも、両方でもって私たちには現されます。肉体の癒し、心の癒しも含まれていると思います。
兄弟姉妹が癒されるように、私たちは望みをもっていつでも祈り続けるべきですし、大事なのは神の御心を求めることです。

クリスチャンにとって、病の癒やしを受けるより重要なことは、キリストの愛によって生きること、御言葉の固い食物を味わうこと等です。

私たちは癒やされるからという理由で神を信じて生きるのではありません。神は創造主であり、救い主であり、無条件に感謝すべきお方です。
すべてを働かせて益として下さる神の御心に信頼して、委ねていきましょう。

※より詳しい音声と動画はこちらより。パスワードは webcha です。

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