8月25日:聖書と性的マイノリティ

メッセージ

多くのクリスチャンが、教会が、避けて通る話題、それが『性的マイノリティ』ではないでしょうか。

現代において自分が、家族が、隣人が、知り合いが、LGBTIQであるということは最早普通になりつつあります。もしあなたの通われている教会、集会に性的少数者の方が見えたらどうしますか?

笑顔で受け入れ、心の中では断罪していませんか?

今回は聖書と性的マイノリティと題して、メッセージの後ディスカッションタイムも設け、皆さんとじっくり学ぶ機会を持ちました。時間が足りなかったので、次週もディスカッションの時間を持ちたいと思います。

まず、学びの前提として①ジェンダーとは何か ②LGBTIQ用語の説明 ③性は先天的か、後天的か という3つをお話ししました。

』とは持って生まれた性別のこと。『ジェンダー』とは簡単に言えば社会的に期待される性的な役割、いわゆる「男らしさ」「女らしさ」という性差のことです。このジェンダーの観点から聖書を見る時、筆者約40人が全員男性であり、当時の家父長制という社会の常識の中で書かれた聖書も、圧倒的に男性目線から書かれていることが分かります。

多くの人が、キリスト教は性的マイノリティ(主に同性愛の方々)に対して否定的だという印象が強いと思います。その根底にあるのは、『性は男女の2つのみであり、異性愛以外の性のあり方は後天的な混乱』という意識があります。同性愛の排除を訴える教会の論理は、大体がスイスの神学者、カール・バルトの『教会教義学』における「創造の秩序論」に影響を受けていると思われます。(以下)

―男も女も、異性との人格的関係においてのみ、完全な人間性に到達することが出来る。生殖のための性は、神の定めたもうた規範である。同性の内に人間性を求めるのは、自己愛であり偶像崇拝である。同性愛的行動は被造物性を拒否することになるのだー

確かに創世記1:28にも『産めよ、増えよ』という命令がありますが、それでは”不妊の方の結婚”はどうで考えられますか?”高齢者同士”は??いずれも生殖に繋がらない、子どもを育てるのが困難な結婚であり性行動です。これも生物学的に見て非合理的だから認められないのでしょうか。

聖書に書いてあることだけが絶対だとすると、創世記1:20『鳥は地の上、天の大空の面を飛べ』というのに従っていないキウィ・バードやダチョウは、不自然な生き方をする鳥でしょうか?聖書には水の中を泳ぐ鳥については一切書かれていないのです。

聖書に書いていないことを理由に、ある方たちを断罪するのは乱暴ではないでしょうか?

よく取り上げられる御言葉に、レビ記20:13があります。同性愛の行為を禁じている箇所です。この箇所を持ちだして、『府中青年の家裁判(1991~1997)と題される事件が起こりました。これは、「青年の家」のリーダー会で自己紹介した同性愛の市民団体のメンバーに、同宿のキリスト教団体のメンバーが上記のレビ記を読み上げ、「同性愛者は正しくない道を歩んでいる人々です」と言ったのです。その後、同性愛者の市民団体(OCCUR)が青年の家の再度の利用を拒否されたことがきっかけで、正当な理由によらない差別的な取り扱いであり、これが人権侵害に当たるとして裁判に発展しました。

結果はOCCURの勝訴でした。

マタイの福音書4:1~11にも、悪魔が聖書の言葉を引用して、キリストを誘惑する場面があります。クリスチャン個人も、教会という団体も、自分の思いや偏見を補強する為に聖書の一部を根拠にしたり、利用することがあるのではないでしょうか。

誰かを裁く、否定する時に聖書を根拠にしているときこそ、自分が何を理由に断罪しているのか、真摯に問い直す必要があります。

そう、聖書には確かに、創世記1:27『神はご自分をかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された』と書いてあります。LGBTを作ったとは書かれていません。その上で、聖書に書かれているから(書かれていないから)という理由だけで本当に断罪していいのか、慎重に見極める必要があると思うのです。

私たちはどんな事であっても、聖書だけでなく自分自身の道徳的感覚、偏見、嫌悪感などを一緒にして考え行動するのではないでしょうか。「自分は聖書だけを根拠にしている」と言える人は、高慢になってはいませんか。

<イエス・キリストとマイノリティ>

約2000年前当時の、身分制度がピラミッド式のユダヤ人社会に生きたイエスは、マイノリティとされる人々とどう関わって来られたのでしょうか。

奴隷、貧農、ホームレス、病人、身体障害をもって生まれた人、未亡人などは神から遠い存在であり、それだけで汚れた罪人と考えられていました。接触するだけでこちらも汚れてしまいます。それが聖書(当時の聖書なので旧約です)に書かれている事でした。罪人と食事をするだけでも、社会秩序を乱す罪深い行為だとされていました。 

イエスは安息日に人を癒し、病人に触れて癒し、罪人の取税人に声を掛け一緒に食事をし、あるいは弟子にまでしました。こういった聖書に反する行為は、書いてあることを只守ればいい、律法に従ってさえいれば正しい、そう思っていた当時の人々にショックを与えたに違いありません。

何がイエスの思いであったのでしょうか。

イエス自身が「聖書に書いてあるから」という理由で批判されるような行動、当時の社会では罪深い行動を、あえて公然と命を掛けて行いました。どんな人間でも、無条件で、そのままで生きている価値があるのだということを示しました。

人は神から見れば皆平等なのです。

果たして、同性愛をはじめとするLGBTIQを排除するのがキリストを信じる者として正しいのでしょうか。病人や障害者、外国人を排除したパリサイ人と何が違うのでしょう。

神もイエスも、多様な性を受けた私たちの隣人に、同じように愛と祝福を注いで下さっています。

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