今回は1章ずつ短く解説してみました。
教理書のような読まれ方をすることの多い「ローマ人への手紙」ですが、大きく主旨を掴むことで、理解の助けになればと思います。
※YOUTUBEに音声と動画がありますので、ご活用ください。
- ローマ書の大まかな構成
- 「義」とは?
- ローマびと、とは誰をさす?初代教会のクリスチャンたち
- ローマ人への手紙の特徴
- 1章:挨拶と、福音の内容
- 2章:神の正しい裁き;本当の割礼とは
- 3章:信仰(信頼)による義、義認
- 4章:信仰の父、アブラハム
- 5章:4章までの総括、義と認められた私たち
- 6章:キリストともに死に、新しいいのちに歩む
- 7章:敗北宣言が解決策
- 8章:御霊にある私たちは、神の子ども
- 9章:イスラエルの躓き
- 10章:自らの義、神の義
- 11章:回復されるイスラエル
- 12章:キリスト者の生き方①
- 13章:キリスト者の生き方②
- 14章:兄弟姉妹を受け入れよう
- 15章:心を一つにして
- 16章:挨拶と、推薦。啓示された奥義を知って欲しい!
ローマ書の大まかな構成
義の必要について(1:18-3:20)
義が与えられる事について(3:21-8:39)
義の証明について(9:1-11:36)
義を行動に移す事について(12:1-15:13)
16章は推薦と挨拶です。
「義」とは?
旧約聖書での義は、断罪や刑罰という「神の正義」が強調されています。
新約聖書における義は、「義と宣言する」こと、いわゆる「救い」の意味が強調されています。義と書いてあったら救いと読み替えても通るのではないかと思う位です。
でも、どちらも本質的には同じです。
そして「さばき」と「救い」の両方を決定的に成就したのが、イエス・キリストの十字架なのです。
パウロが通常書く手紙というのは、自分が伝道して開拓した集会へ向けて励ましたり、注意を促す内容が殆どです。
ですが、ローマ書を書いた時点でパウロはまだローマに行ったことはありません。
いつか行こうというつもりでいたと思いますが、コリントで出会ったローマ出身のプリスキラとアクラ夫婦と意気投合し、エペソも含めて4年も一緒に過ごす中でその気持ちは強まったでしょう。
結局その願いは、護送されていくという形で叶うわけです。
同じ天幕職人として働きながら、2人はパウロから直接福音の手ほどきを受けたでしょうし、2人からパウロは、その頃「世界」と言ったら、『ローマ帝国が支配する地域』という意味であるほど、強大な帝国の首都について、色々聞いたでしょう。
この2人は命を懸けてパウロを守ってくれたと、ローマ書の16章にはあります。
使徒の働きや他の書簡で6回も出てくるほど、パウロと親しく関わり、また働きのあった夫婦です。
ローマびと、とは誰をさす?初代教会のクリスチャンたち
ちなみに、ローマ人への手紙と書いていますが、これはローマ人全般ではなくて、ローマにある集会に属している、キリスト者たちに宛てた手紙なので、一般的に「ローマびと」と読みます。
初代キリスト者の時代、集会は増えて(聖書には教会と書いてありますけれど、私たちの考えるような教会は、まだありませんでした。家庭集会や、会堂を借りて集まりました)、コリントやローマのような大都市には1つの集会では足りずに、幾つも地区に分かれて集会があったと思います。
でも教会というのは常に単数形で書かれています。黙示録でもそうです。
それは何故かというと、各集会に少なくとも1人の長老が、そして各町には1人の監督がいて、その人がその町全体の集会を調整していました。
フルタイム、24時間、無給で信徒たちのケアに当たったのです。
しかも今のように、その教会と縁もゆかりもない人が長老、監督として来るのではなく、その集会で生まれ育った人がなりました。
家族構成も、人格も、皆が良く知っている人です。
そして今の多くの牧師の様に、2~3年勤めたらもっと大きな、給料の良い教会へ移っていくという事はありません。
任命されたら迫害や強制退去命令のない限り、生涯、死ぬまでその集会に奉仕したんです。なのでどんなに沢山の集会があっても、真に1つだった、というのが初期のクリスチャンたちの特徴です。
ローマ人への手紙の特徴
ローマ人への手紙には、イエス・キリストを信じる、信頼する本質、「神」「罪」「救い」「信仰」について、まとめられています。そして、人が救われるのは「行い」ではなく「信仰」によることがはっきりと書いてあるのが特徴です。
アウグスティヌス、ルター、カルヴァン、ジョン・ウェスレー、内村鑑三など、そうそうたるキリスト者たちがこの書を「キリスト教の神髄」として研究しました。
ただし、『救い』については本当に「信仰;信頼」だけで良いのかという大事なテーマがありますので、また今度、改めて考えてみたいと思います。
1章:挨拶と、福音の内容
ギリシャ語では1節から7節までが1文になっています。
ローマ人への手紙のテーマは『信仰(信頼)による義、救い』です。
ユダヤ人は「しるし」を求めるので福音は、彼らにとって躓きをもたらします。
異邦人代表として書かれるギリシャ人は、「知恵」を求めるので、福音はおろかなものに思えてしまうのです。
人が的外れなこと、罪を犯すときに神は、激しい嘆きを持ってみておられます。まずこの神の御怒りから、神の義、救いの福音が始まります。
そこで、色々な不品行が列挙されていす。
2章:神の正しい裁き;本当の割礼とは
1章に続いて、人に下っている神の怒り、さばきについて書かれています。
山上の垂訓でイエスが言われた裁いてはいけない理由を思い出して下さい。私たちには、他の人の心まで知ることは出来ない故に、自分の基準で人を判断してしまいます。その判断基準で自分も裁かれるとしたら、どうでしょうか?
契約の印とされた割礼を例に出して、ユダヤ人クリスチャンに語りかけています。
3章:信仰(信頼)による義、義認
神の義、救いは、イエス・キリストを信じる(信頼する)者全てに、差別なく認められます。
唯一の神は、ユダヤ人だけの神ではなく、全ての人の神でもあるのです。
それでは、神が折角下さった律法の立場はどうなってしまうのでしょうか?
次の4章で、アブラハムを例に出して説明します。
4章:信仰の父、アブラハム
アブラハムも、割礼という律法を守ることによってではなく、割礼前に神に信頼したことによって、神の救いが宣言されました。
アブラハムは、強い意志の力で、イサクを捧げようとしたのではないのです。
”わが子を捧げなさい”という試みがあった時でさえも、主を深く信頼していました。ユダヤ人も異邦人も、主イエスをよみがえらせた神を信じる時、その信仰が義、救いとみなされるのです。
5章:4章までの総括、義と認められた私たち
信仰によって義と認められた私たちが、キリストにあってどのような神の祝福を受けているのかについて書いてあります。
初めの人、アダムの違反によって罪がこの世界に入ると、死が全ての人どころか、被造物全体を支配するようになりましたが、同じ様にひとりの人、イエス・キリストの義の行為によって、多くの人が義とされる様になりました。
6章:キリストともに死に、新しいいのちに歩む
私たちは罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリストにあって生きている者である、という事が、『罪の奴隷』『神の奴隷』という言葉で説明されています。
それは、もう罪を犯さなくても良い自由が与えられた存在ですという事です。
7章:敗北宣言が解決策
律法自体は正しく、良いものであり、霊的なものであるということを認めました。そこでこれを行ないたいと願うのですが、むしろ自分はまったく逆のことを行なっている事に気付いたパウロは、ここで罪も律法も「法則、原理」だという事を見出します。
8章:御霊にある私たちは、神の子ども
御霊は、私たちが神の子ども(養子)であることを証しして下さいます。そして私たちは神の相続人でもある、と言っています。
御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証してくださいます。
ローマ人への手紙8:16
キリストのものである人のうちには、御霊が住んでおられます。そういう人はからだは罪のゆえに死んでいても、御霊がいのちになって下さっています。
高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
ローマ人への手紙8:39
私たち、神に選ばれた者の罪を日々訴える者、サタンがいますが、神が私たちを義と認めて下さり、イエスが私たちの為に取り成して下さるのです。
9章:イスラエルの躓き
福音はまずユダヤ人に伝えられました。けれどイスラエルの多くは福音を受け入れませんでした。逆に異邦人の多くが福音を受け入れています。それでは、神のご計画は無効になったのか、という疑問が出ますが、決してそんなことは無いと言っています。
彼らはつまずきの石、イエス自身に躓いたとあります。
9-11章ではイスラエルの歴史を振り返っています。神がイスラエルを完全に見捨ててしまった訳ではなく(11:11-12)、異邦人の完成の時まで、一時的につまづく事を許されたのだと説明しました。
10章:自らの義、神の義
神の祝福はまずイスラエルに及ぶはずなのに、イスラエルが神の義、つまりイエス・キリストの贖いと赦しを受け取らずに、反抗していました。
自分の義を立てようとしていたのですが、神はそんな反抗する民にも終日、手を差し伸べていたことが書かれています。
11章:回復されるイスラエル
ユダヤ人、異邦人のクリスチャン、そしてユダヤ人クリスチャンの事がオリーブを例えにして語られています。
折られたいくつかのオリーブの枝は不信仰なユダヤ人、接ぎ木されているのが異邦人のクリスチャンです。そして本来の枝がというのが、イエスを信じたユダヤ人です。これは自然な枝です。
教会、エクレシアとは、イエスを信じた異邦人とユダヤ人の集まりなのです。
キリストを拒絶した現代の多くのイスラエル(ユダヤ人)は完全に「死んだ」状態にあります。しかしこの「死んだ」状態にある彼らが回復することを、死からいのちを得る、生き返ることに例えています。
12章:キリスト者の生き方①
『神の義』の部分を終えました。これから、実際的な生活、奉仕について色々な勧めが書かれます。まず、礼拝とは私たちクリスチャンの生き方そのものだという事が分かります。
そしてこの章で、『愛』を強調しています。
13章:キリスト者の生き方②
神を恐れるキリスト者は、個人生活やエクレシアでだけではなく、社会においてもその権威に従い、ルールに則った生活をする様にと勧めています。
1節に「存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。」とあります。
これはあくまで、全ての権威の上にある神の立てられた掟に反していなければ、ということです。
事実、この手紙が書かれた後、「この道」の者と呼ばれていたクリスチャンに対して激しい迫害が起こりますが、彼らはこの世の権威には逆らって、頑としてイエスを主と呼ぶことを止めませんでした。
14章:兄弟姉妹を受け入れよう
初代教会は本質的な部分『キリストへの従順』において一致していました。
同時に、使徒たちが一度も説明したことが無かったことも、明らかに沢山あったので、そういった部分においては多様性、お互いを受け入れあう寛容さがありました。
この章では『食物』や『特定の日』についての各自の考えの違いを例に出しています。
救いに関わるような、大切な真理について一致する大事さと、その他の事ではお互いを受け入れあいなさいという事が書かれています。
15章:心を一つにして
ユダヤ人キリスト者の多いエルサレムの集会では、パウロが主の律法をないがしろにするとか、異邦人が神の家族に入る際には、何らかの律法は守らなければいけないんじゃないか…と考えていた人たちもいて、目に見えないギクシャクした関係が、異邦人メインの教会とユダヤ人メインの教会の間には出来ていました。
パウロはその壁を、キリストにあって破りたいと願っていました。
他の箇所では「交わり」と訳されているコイノニアκοινωνίαというギリシャ語が、ここでは「醵金(きょきん)」または2017年度版だと「援助」となっています。
パウロはこの後、西に向かってローマ、その後イスパニアと書かれているスペインの方まで伝道しに行こうという考えがありましたが、その前に、困窮するエルサレムの、ユダヤ人エクレシアの為に、マケドニヤやアカヤにある教会から献金を募って、持って行こうとしていました。
彼ら自身も貧しかったにもかかわらず、惜しみなく援助してくれたので、パウロはこの「実」を渡してから、ローマへ行きますよと言っています。
16章:挨拶と、推薦。啓示された奥義を知って欲しい!
15章の終わりで「どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン」と言ってこの手紙を終えようとしているんですが、言い残したことを思い出して、また話し始めます。そして20節位で終えようとするんですが、また言い残したことを思い出して、付け加えます。
初期の巡回宣教というのは、紹介状を持って旅したんですね。だからパウロも推薦する奉仕者や、同労者の名前を挙げています。
ここに列挙される名前の中には、パウロや他の使徒たちに直接教えられて、後に初代キリスト教徒として著作を残す人もいます。
『律法の行ないではなく、信仰(信頼)によって義と認められる(キリストの義が転嫁される)こと』
『ユダヤ人だけではなく異邦人もその救いにあずかることができること』
これは預言者たちによってすでに語られていたのですが、まだ理解が十分ではありませんでした。そこで主がパウロにこの奥義を啓示して下さったのです。
パウロは旧約聖書の箇所を例に出したり、登場人物や出来事を通して、真理を分かりやすく説明しています。
この奥義を知って欲しい!という気持ちでパウロはローマ書を書いています。
教理的な書物だと言われることの多いローマ人への手紙ですが、ユダヤ人もそうでない人も、全人類への罪の赦し、救いを啓示されたパウロの情熱が、ありったけ込められているとも言えます。
ぜひ、何度もじっくり味わって読んでみることをお勧めします。
コメント