8月22日:死後の世界 ③ ハデスからの切なる願い

メッセージ

誰もが避けては通れない『死ぬこと』と、聖書によると『死後に裁きを受ける』こと。
前回のルカ16章と、ルカが書かなかった31節の続き…。

ハデスにおいてハデスの苦しみを超えた苦痛? ハデスにいる人たちの切なる願い?私たちの亡くなった親族?日本人の場合の特例?ハデスで苦しんでいる意外な原因?ハデスからの救い?など、ともに考えてみましょう。

死の後に続くのは?

ハデース(ハデス)とゲエンナ(ゲヘナ)という言葉を聞いたことはあるでしょうか?
King James Version(KJV)という非常に信頼性の高い訳の聖書でも、この2つに関して大きな誤訳がありました。それは、この2つをまとめて『HELL』と訳してしまった事です。
そこから日本語の聖書でも誤解が生まれ、これを『地獄』と解釈してしまいました。

日本に来た宣教師たちも当然誤解したままでしたので、「罪のあるまま死んだ人は、地獄に行く!」という脅しのような宣教をして来たのです。しかし、実はゲエンナ(ゲヘナ)にはまだ、誰も入っていません。

ハデースで苦しむ意外な原因

聖書に書かれていない事があります。
それは、ルカ16章においてハデスで苦しむ金持ちが、生前「して来た事」です。彼はした事で苦しんでいる訳ではなかったのです!!では、何で苦しんでいたのでしょうか。
それは、『しなかった事』なのです。

ラザロに代表される貧しい者たちに憐みを示しませんでした。施しもしませんでした。
旧約聖書を知っていたのに、聞き従いませんでした。すなわち、神のことばに信頼しなかったのです。

マルコ9章43節-45節

皆さんがお持ちの聖書に44節はありますか?
44節には48節にある文章が入ります。
そして、この箇所は最終的に”消滅しない霊魂体で、永遠に苦しむ場”として、ゲヘナについて語っています。
ハデスではありません。

ハデスはゲヘナより軽いですが、苦しみの場所です。
この”苦しみの場”はバサノスという言葉で、試金石とか拷問という意味もあります。つまり、下の世界であるハデスにおいて試されるのです
そこは憐みが失われた世界です。
燃える火の中での苦痛があります。

しかしここでもう1つ読みとれる事があります。それは、金持ちの心が変えられている、という事です。

ハデスでの苦しみ以上の『苦しみ』オデュナオー!

ルカ16章の24節にはこうあります。

彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先に水を浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

ルカ16:24

『苦しみもだえている』、というギリシャ語はオデュナオーといい、確かに苦しいという意味があるのですが、その他に「心配している(ルカ2:48)」「心を痛めている(使徒20:28)」という意味もあるのです。
つまり心的苦痛です。

金持ちは体の苦しみと同時に、兄弟がここへ来てしまうかもしれない!でも伝えられない!という心の痛みも感じています。
彼と、彼の父母がハデスで連絡を取り合ったとか、話が出来たという事は書いてありません。以前死んで、ハデスに来ている者と何らかの意思疎通をする事…それは恐らく出来ないのでしょう。
孤独なのです。
そして、この事実を伝えようにも手段がない、という絶望感に苛まれます。
きっとハデスにいる他の霊魂体も、同じ事を感じているでしょう。

ユダヤ人に向けて言った「16章29節」

しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』

ルカ16:29

モーセと預言者とは旧約聖書の事です。
ユダヤ人は神から律法を頂いています。ですが日本人は、祖先は、どうすれば良いのでしょう?!
福音など生まれてから死ぬまで、聞いたこともなかった!!という人は日本人だけでなく、世界中にいるでしょう。

そこでローマ人への手紙3章21節を見てみましょう。

しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

ローマ3:21、22

画像の私訳はより分かり易くなっています。
神のとは何でしょう?

信仰による義ではありません。私たちのどんな「信心」も、何の役にも立ちません
イエス・キリストの真実を通して与えられた『神の義』。罪、不義が一点もない完璧な義が、イエスの全人生の「実」を通して私たちに与えられるのです。

死はハデースではない!

死とは何でしょうか?
苦しみの場所、ハデースと同じではありません。では通過点なのでしょうか?
この啓示録(黙示録)20:13を見ると、『死』という場所と『ハデス』という場所、2つが存在するように読めます
死という場所にいる死者と、ハデスにいる死者です。

そこで再度、死とは何でしょうか?

死者たちは、「死」という場所に一時的にいるのです。

ハデスから生還した人はいません。臨死体験者が「死んでいる間、地獄を見た!」とか「ハデスに行った!」と言っていますが、果たして事実でしょうか?
臨死体験者は、ハデスまで行っていません。
「死という場所」に留まっているのです。

イエスただお一人だけが、この2つの場所の鍵をもっておられます。

生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

啓示録(黙示録)1:18

そこで、自由に「どちらにも」行き来出来るのです。
イエスは死という場所にいた、ラザロや少女を生き返らせました。

死を支配するイエス

「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」

Ⅰコリント15:55

これはどちらも日本語訳では『死』となっていますが、最初の『死』は『ハデース』です。
そして『とげ』とは『毒牙』です。

金持ちがアブラハムに願った事、それは叶えられませんでした。アブラハムにも、ハデスの中にある深い淵は越えられないのです。
しかしイエスのみがハデスへ行って下さいます。そして、ハデスにいる者たちへケールッソー(宣教)して下さるのです。

※より詳しい音声と動画はYOUTUBEからお聞きください。

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