アブラハムは、”すべて信じる者の父”です、というメッセージを前回させて頂きました。実際に血の繋がった子孫だけでなく、私たち信じる者も、皆がアブラハムの子です。
今回は、地図を見ながらアブラハムの足跡をたどり、そこから私たちの現在位置を確かめてみる試みをしてみたいと思います。
何故アブラハムが信仰の父と呼ばれるのか、アブラハム契約とは何か、そして誰がアブラハムの子孫であるのか、前回確認したと思います。
アブラハムは“すべて信じる者の父”です。
実際に血の繋がった子孫だけでなく、私たち信じる者も、アブラハムの子です。
サタンがいつでも嫌う「ユダヤ人」と「真に生まれ変わったクリスチャン」は、神の民と呼ばれています。
アブラハムが“すべて信じる者の父”だとすると、彼が創造主を信じるすべての人の原型です。アブラハムが経験した道のり、試練、報酬というのは、彼の子孫に起こることの型と見ることが出来るのです。こうした聖書の読み方をミドラッシュと言います。
呼び掛けはウルから
アブラムは、神の召しに応えて約束の地カナンを目指しましたが、その召しは、実はハランにいたときではなく、生まれ故郷、カルデアのウルにいた時に既に頂いていたものだった!ということを前回話しました。創世記には書いていないのです。
ステパノがこう言っていました。
「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。私たちの父アブラハムが、ハランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて、
使徒の働き7:2-4
『あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け』と言われました。
そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、ハランに住みました。そして、父の死後、神は彼をそこから今あなたがたの住んでいるこの地にお移しになりましたが、
まだ若いうちにアブラハムはこの召命を受けていました。
でも彼は応えませんでした。何故でしょうか?ハッキリした理由は聖書に書いてありませんので分かりません。
ウルを旅立ったのは父、テラと一緒でした。
一説によると紀元前2000年頃に、エラムという国がウルに侵攻して、ウルが陥落しました。その為に一家そろっての移住だったのかもしれません。
主はずっとアブラムに呼び掛けておられたんです。(この頃は名前がまだアブラムだった)でも、彼が応えたのはハランに着いてからでした。
神は呼び掛けておられる
神は絶えず私たちにも呼びかけています。
『父の一人子イエスを通して救われる、この瞬間まで、私たちを導いてくれていたのは創造主なる神だったんだ!』ということに、救われた時気付きます。
現在、未来に意味が見いだせるだけでなく、過去にあった色々なことにまで意味が分かるのです。
例えば、パウロがまだサウロだった時、生まれついてのローマ市民、ユダヤ人とギリシャ人の混ざった土地タルソに生まれたのでバイリンガル、エルサレム育ちで、ガマリエルの弟子、旧約聖書を良く知っているパリサイ人、という1つ1つに意味を考えたことなんかなかったと思います。
それが、救われて、召しに応えた時、神はずっと初めから自分を導いて下さっていたんだ!ということに気付くんです。
ですが、私たちが神の恵みに気付いたり、召しに応えるためには、絶対にとは言いませんが、人生の危機が必要なことが多いのです。
そういう時に、気づくことが多いのではないでしょうか。
重荷を下ろす場所、シェケムへ
アブラハムは甥のロトや妻のサラ、全財産、ハランで得た人たちを全部連れて出発します。そして、シェケム、ヘブライ語で肩を意味する場所までやってきます。この肩とは重荷を負う所、という意味です。
“シェケム”は自分の重荷を下ろし、神を知る場所です。
ここで主がアブラムに現れて、お話しされたので、アブラムは祭壇を作ります。
祭壇を作る目的はただ1つ、いけにえを捧げるためです。何かを捧げることがなければ、何の進歩もないことが分かります。
生まれ故郷に背を向けた地、ベテル
アブラムはシェケムから、ベテルの東にある山の方に移動して、そこにも祭壇を作ります。
西にベテル、東にアイという所がありました。ベテルは神の家、アイは廃墟の山という意味です。
東というのはアブラムの過去です。故郷バビロンのウルがあった方向です。神の家に顔を向けて、廃墟の山の方向、生まれ故郷には背を向けました。
私たちは毎週日曜日、こうして集まって主を礼拝します。
家庭礼拝ですと祭壇はないんですが、仮にあるとすると、祭壇を作って礼拝するのは何かを捧げるためです。背を向けているのは私たちが主を信じる前の過去です。
例えば私だったら、日本で彫り師をしていた頃の自分です。
今の私にとって彫り物というのは只の文化です。何の影響もありません。
ただ、自分が救われて、成長している間は誘惑になりました。今よりもっとタトゥーショップが目につきました。タトゥーイベントのポスターもあちこちに貼られていて、この国では年間どれ位タトゥーのイベントをやっているんだろうと思う程でした。
成長してから彫り物は何の問題でもなくなりましたが、 その時期の私にとってはひとつの誘惑だったんですね。
勿論クリスチャンになったからと言って、祭壇の上にそれまでの自分のすべてをおく必要はないでしょう。それでも、それがもしイエスの救いから目をそらさせるものだったら、暫くの間は祭壇に置いておく必要があるのではないでしょうか?
誰でも、何かを祭壇に置かなければならないんじゃないかと思うんです。でも、まだベテルまで到達していない人もいるかも知れません。
福音を理解して、信仰の告白をしたかもしれませんが、そこまでなのです。そこから先に進まない人がいます。
皆さんはどうでしょうか?
エジプトへ下る
エジプトというのは、”この世的”な場所の象徴です。
ベテルの地に飢饉が起こったので行ったわけですが、アブラムは『この世』とどんな関わり方をしたでしょうか?
アブラムは妻のサラがあまりにも美しいので、「自分の妻だ」というと自分が殺されると思って、自分の妹だと偽ってエジプトのファラオに性的に引き渡してしまうことまでするんです。
私たちは誰でも、この世と関わりを持たずに生きてはいけませんが、関わる際には主の知恵と導きが、必ず必要です。
アブラムが主に相談したとは書いてありません。
サタンは、どうやって成長中のクリスチャンを誘惑するのか?!
ベテルで、過去に背を向けているクリスチャンを揺さぶるには、自分の運命は自分で切り開かなければならないと感じさせるのです。
神が私を捨ててしまった!と感じさせるんです。
経験も知識もない、幼いままのクリスチャンは、簡単にだまされてしまいます。
信じて直ぐは熱意があって、情熱があって、なんでも出来ると思います。でも数ヵ月後に困難が襲ってくると、神に相談することなしに、この世の方へ戻って行ってしまうんです。
彼はネゲブからベテルまで旅を続けて、ベテルとアイの間にある。最初に天幕を張った場所まで来た。
創世記13:3-4
そこは、彼が以前に築いた祭壇の場所であった。アブラムはそこで主の名を呼び求めた。
アブラムは結局エジプトから、古代はシュルの荒野と呼ばれる、西にシナイ砂漠が、東にはネゲブがある、非常に大変な道のりを通って、まずベテルまで戻ってくることになります。
エジプトを出ないといけません。エジプトに助けを求めても無駄です。
アブラムは最初の地点まで戻ってきました。
永遠から比べればほんの僅かかも知れないですが、早くエジプトを出ないと時間の無駄です。
そこで死ぬか、落ちたところに戻って最初の旅を始めるか、イエスを知った人にはどちらかしか、残されていないからです。
甥のロトとはそこで別れ、アブラムは天幕をヘブロンへ移します。「交わり」という言葉に由来する場所です。
主と交わる、ヘブロン
「交わり」という名前のヘブロンに移ったアブラムは、マムレの樫の木のそばに住みます。
ヘブライ語で“マムレ”というのは“頑丈さ”や“活力”という意味であり、マムレの樫の木というのは“力の樫の木”です。
エジプトは出たかもしれませんが、ヘブロンへ行かず、まだベテルにいる人がいるんじゃないでしょうか?
ベテルへ行って、そむけ。ギルガルへ行って、ますますそむけ。朝ごとにいけにえをささげ、三日ごとに十分の一のささげ物をささげよ。
アモス4:4
感謝のささげ物として、種を入れたパンを焼き、進んでささげるささげ物を布告し、ふれ知らせよ。イスラエルの子ら。あなたがたはそうすることを好んでいる。—神である主の御告げ—
ベテルに行って背くというのは、十分の一の捧げものをするのに、種、つまり罪の入ったパンを焼く人たちの事です。
教会に行って、奉仕もして、献金もして、はいまた来週会いましょうと言う、だから大丈夫です!という宗教を、私たちの古い性質は愛しています。
古い性質はルールを守りたがります。律法の下に入って自分を正当化しようとします。アモスの5章にはこうあります。
ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。ギルガルは必ず捕らえ移され、ベテルは無に帰すからだ。」
アモス5:5
最終的にベテルを求めてはいけないんです。ベテルは必ず無に帰します。
現在、中国の家の教会や、最近は政府管理下にある「三自教会」でも、迫害を免れないのだそうです。
去年のニュースですが、20年続いていた教会に警察官と政府関係者が乱入して、4冊しかなかった聖書を没収し、献金箱と椅子100脚を没収し、「信仰が必要なら共産党を信じろ」と言い渡したということです。
牧師は逮捕を恐れて逃げました。教会という建物は消滅しましたが、交わりこそが存在し続けます。
それは90歳を超えた信者さんへの献身です。共同体、神の家族という意識を持つ人たちです。お互いのためなら、あえて危険を冒すような人たちが、迫害の下で生き続けます。
教会に安全はありません。
例え迫害がなくても、教会そのものは私たちを必ず失望させるでしょう。
でも、この世界のクリスチャンの大半が、実はベテルにいるんです。教会から、交わりに移らないといけません。
あなたはどこの住人でしょうか?
ウル:クリスチャンの子供たち、まだ大人と同じメッセージを聞けないので、子供クラスにいるような子たちはここにいます。
両親の信仰を通して、子供たちはすでに主によって救いの道に導かれています。神はすでに彼らを召しておられるんです。
私たちは幼児洗礼を授けることはしませんが、神はクリスチャンの子どもたちを世の子どもたちとは違うように見ておられます。
ハラン:まだ、何らかの理由で主に立ち返っていない人は、人生の目的も分からずにここに立ちつくしているかも知れません。ですが、イエスの福音を受け入れると、明らかになって行きます。
今日、旅を始めることが出来ます。
ハランにいる方へ
イエスは私たちの罪のために十字架に向かいました。そして神はイエスの義を、私たちに与えられました。
また、イエスが死者から復活されたように、私たちも死から復活させられて、永遠のいのちへと導かれます。これが福音です。
今すぐにでも、死からいのちへと移ることが出来ます。ゲヘナに行かず、白き御座の裁きにもあわず、今、アブラハムの子どもになれます。
神は私たちの罪を取り、イエスのいのちを与えられるのです。ぜひ、受け取られて下さい!!
エジプト:無駄な時間が過ぎて行こうとしています。ソロモンも言っていますが、何の喜びもない年月です。この時は取り戻すことが出来ません。
神はそうされていないのに、神に見捨てられたと感じて、エジプトに下ってしまった人もいるかもしれません。この世に戻ってしまったのです。
そこでは何の希望もありません。創造主に立ち返ってください。
ベテル:ここはほとんどの人がいる場所です。でも、神は私たちがそこにいることを望んでいません。神は私たちがヘブロンに来ることを望まれています。
宗教という名の詐欺
北アイルランド、ユダヤとパレスチナ、そしてISやアルカイーダを見て下さい。
あれが宗教です。
宗教は人類の歴史上、最大の詐欺です。何の益ももたらしません。
ヘブロン:神は私たちがキリストのからだの中で、どの位置であるかを知ることを望まれています。自分の賜物が何か分からない人というのは、まだベテルにいる可能性が十分にあります。
大事なのはベテルという教会ではなく、ヘブロンという交わりです。
ヘブロンは安全です。
教会に来たらそこで終わりではなく、主と、神の家族と交わりましょう。
マムレの樫の木の場所には主がおられます。私たちはそこにいる限り、主の御側にいられます。
ぜひ、ヘブロンに来て下さい!
※より詳しい音声と動画はこちらより。パスワードは webcha です。
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