天地の造り主に、病気が治るように真剣に祈ったことはおありでしょうか。
癒しに限らず祈りに果たして応えていただけるのかと、 不安を感じていませんか?!
どうして答えられないのか。どうしたら、祈りが応えられるのか、何が必要かなど、共に考えてみましょう。大胆に祈りましょう!
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。
マタイ28:16-17
そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。
弟子たちはここでイエスに会う前、何度も実際に会い、一緒に食事も共にしています。(ルカの福音書、ヨハネの福音書に詳しく書かれています)
にも拘らず疑っていた人もいたのです。しかも、何人も!
その弟子たちをイエスは責められます。
その後イエスは、十一人が食卓に着いているところに現れ、彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった。よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを、彼らが信じなかったからである。
マルコ16:14
不信仰、とある訳は『不信頼』という意味です。
ここで彼らを責められたのは「見た人たちの言うことに信頼しなかったから」です。
もっとわたしに信頼して欲しい、頼って欲しいとイエスは思われています。
こんな、最初から最後まで不信頼な彼らに、宣教の命令を出したのです。
『奇蹟』の勘違い
これを見たペテロは、人々に向かって言った。「イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
使徒の働き3:12
ペテロとヨハネがエルサレムの”美しの門”で、生まれつき足の不自由は男を癒した際、人々はこの2人の力が男を治したのだと思い、彼らの方に一斉に駆け寄ってきたのです。
これは奇跡の勘違いです。
どこから来た力なのか、どこからの権威なのか、私たちははき違えてはいけません。
祈りが答えられないと思うこと
私たちは、祈りが聞き届けられない!自分の祈った通りの答えが頂けない!と感じる時、何を思うでしょうか。
信仰が足りないのでは…もっと信心しなければ…。
私の敬虔さが足りないのでは?!等、色々な足りなさを思います。しかしそうではないのです。
使徒の働き3章16節で、何が奇跡を起こさせたのか説明しています。
このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。
使徒の働き3:16
繰り返しになりますが、この2回出てくる『信仰』は『信頼』とした方が良い言葉です。
主語は『その名を信じる信仰信頼のゆえ』です。
行いのない信仰、死んだ信仰、悪霊どもの信仰
あなたは、神を唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。
ヤコブの手紙2:19-20
ああ愚かな人よ。あなたは、行いのない信仰が無益なことを知りたいのですか。
愚かな→虚しい、空っぽの
無益→死んでいる
悪霊どもは霊ですから、霊の世界の序列関係は良く知っています。当然、自分たちより唯一の神の方が上だという事は承知しているのです。
その悪霊ほどの信仰も、人間は持っていないかも知れません。
悪霊は100%神を信じ、知っているのですから。
では何が私たちと違うのでしょう?
それは、悪霊どもは知ってはいても『信頼』していないのです。彼らは神に頼りません。
最後の審判の際に自分がどうなるか、それは知っているのですが、神に憐れみを求めません。イエスに絶対に頼りません。
それが悪霊どもと私たちの大きな違いです。
行いのない信仰は死んでいる
からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。
ヤコブ2:26
先のヤコブ2:20も参照してください。
私たちはバッテリーを積んでいないのです。走り続ければ自然と充電されるわけではありません。
神から断たれたら止まってしまうのです!
これらを踏まえて、癒しについて考えていきましょう。
祈りは病む人を回復させます
信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。
ヤコブの手紙5:15
ここでも信仰は『信頼』と訳すのですが、この場合は『信頼の』です。
ですから、あなたがたは癒されるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。
ヤコブの手紙5:16
『ですから、』は原語に入っていません。
正しい人(2017年度版)、義人(新改訳第三版)とは、イエス・キリストの義を着ている人、信頼している人のことです。
何か特別な、強い信仰の持ち主というわけではありません。
17節でエリヤの例を出して説明しています。
エリヤは私たちと同じ人間でしたが・・・というように、バアルの預言者450人、アシェラの預言者400人対1人で祈りに勝利したあのエリヤも、同じ人だと強調しています。
そんな凄いエリヤも、雨を降らせる時は7回、必死の祈りをしました。
地にひざまずいて自分の顔を膝の間にうずめる姿勢というのは、出産のときの姿勢だそうですが、こうした苦しい姿勢で、主に答えられるまで、「熱心に」祈ったのです。
祈りが答えられない時
必死に祈っても、祈っても、祈りが実らないと感じることはあります。
そんな時どうするでしょうか?
不公平だと不満をぶつけますか?失望して、怒りが湧いて、なぜ、どうしてという疑問も持ち上がり、今までの信頼が揺らぐような気がしてきませんか?
それは、『奇蹟は起きて当然だ』という勘違いをしているのではないでしょうか。
400、400、1900という数字が何だかお分かりですか?
最初の400は、イスラエル人がエジプトで奴隷として苦しみ続けた期間、400年です。紀元前1440年頃モーセが彼らをエジプトから導き出したのです。
そして次の400は旧約聖書から新約聖書までの間の400年です。この間、目立った”しるしとしての奇跡”はなかったのでしょう。
大きなブランクです。
最後の1900年は、全世界に散らされたユダヤ人がその純粋性を失うことなく、1900年ぶりにイスラエルという国を建国した数字です。
実に長い期間、イスラエルの人々は主に叫び、嘆き、求めました。しかしその祈りは、1900年間聞かれているとは思えなかったのです。少なくとも、当時祈っている人にはそう感じられたでしょう。
それでも私たちは主権を神にお任せし、委ねることが大事です。
癒されないまま、そこに主の恵みの深さ、主の完全な力が現れて下さることをも経験しましょう。
祈っても病が治らない経験
その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。
Ⅱコリント12:7-8
この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。
パウロは他人を癒せるほど、癒しの賜物があった人です。その彼が自分の体の”とげ”は癒せなかったのです。
ですが、その答えが次の9節にあります。
しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
Ⅱコリント12:9
必要なのは全能者
全能者へ信頼して祈りましょう。
神はすべてを益として下さいます。そして、霊、たましい、体が健全になるように祈りましょう!
※詳しい音声、動画はこちらより。パスワードは webcha です。
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