”救い主”、”メシア”と聞いて、どんな方をイメージされるでしょうか?
旧約聖書には、メシアの預言が沢山あります。ダビデ王の系譜である、とか全ての国を統べる主権と栄誉を持っているとか、強く勇ましく厳しいイメージが多いです。
救い主イエス・キリストは一体何の為に、私達の所へ降りてきてくださったのでしょうか。
しかも、誰も想像していなかった身分でお生まれになり、想定外の生涯を送られたのです。
クリスマス前の礼拝に、イエス・キリストが来て下さった意味を、今一度考えてみたいと思います。
預言された「救い主」のイメージ
メシア、救い主については旧約聖書に沢山の預言があります。
私がまた、夜の幻を見ていると、
ダニエル7:13-14
見よ、人の子のような方が
天の雲とともに来られた。
その方は『年を経た方』のもとに進み、
その前に導かれた。
この方に、主権と栄誉と国が与えられ、
諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、
この方に仕えることになった。
その主権は永遠の主権で、
過ぎ去ることがなく、
その国は滅びることがない。
”人の子”はイエス・キリストのこと。最初の3行までは、キリストの地上再臨の時を表しています。
それ以降は、千年王国のことを預言しています。
メシアの家系についても、預言があります。
あなたの日数が満ち、あなたが先祖のもとに行くとき、わたしはあなたの息子の中から、あなたの後に世継ぎの子を起こし、彼の王国を確立させる。
Ⅰ歴代誌17:11
ダビデの息子、ソロモンのことを預言したのではなくメシアを強調しています。
メシアはダビデの家系から出るということです。イエスの父ヨセフもそうですが、マリアもダビデの家系でした。
ユダヤ人が持っていたメシア、救い主のイメージはどんなだったでしょうか?
主は地のすべてを治める王となられる。
ゼカリヤ14:9
その日には、
主は唯一となられ、御名も唯一となる。
ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。
イザヤ9:6-7
ひとりの男の子が私たちに与えられる。
主権はその方にあり、
その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、
ダビデの王座に就いて、その王国を治め、
さばきと正義によってこれを堅く立て、
これを支える。今よりとこしえまで。
万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
他にもイザヤ16:5、エレミヤ23:5~6、33:14~17等いたるところに、メシアの預言があります。読むと、メシアという方は全世界を治める、力強い主権者!という印象です。バプテスマのヨハネがイメージしていたメシア像も、まさにこのようだったと思います。
ユダヤたちも、同じように期待していました。
バプテスマのヨハネがマタイ11章で「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方をまつべきでしょうか。」と、つい聞いてしまったのは、この従来からのメシア像とイエスが、かけ離れたものだったからでしょう。
しかしイザヤ書53章を読むとメシアの別の側面も見えてきます。
彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。
イザヤ53:2-3
砂漠の地から出た根のように。
彼には見るべき姿も輝きもなく、
私たちが慕うような見栄えもない。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で、病を知っていた。
人が顔を背けるほど蔑まれ、
私たちも彼を尊ばなかった。
章の最後の12節まで読むと、なるほどこれは主イエス・キリストのことだったんだなと分かります。
私たちの罪の代価を全て負って下さり、十字架という、あの時代で1番残酷で、苦しい生贄となることで、代償を払って下さったのです。
種蒔く者としての救い主
主イエスは、メシアとしての力、能力をただそこでだけ咲かせるために来られたのではなく、むしろ働きとしては、福音の種蒔きの仕事をされるために来られたのではないでしょうか。
マルコ4:14に、種蒔く人は、みことばを蒔くのです。と書かれている通りです。
同じ種蒔きのたとえは、マタイ13:3~23、ルカ8:5~18にも書かれています。
旧約に預言されているメシアには、種蒔きをするというイメージはあまりないのです。
救い主は「収穫」に来る。そして、『良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。』とヨハネも、イエス様自身も言われていた(マタイ7:19)ように、裁き主の側面を持ちます。
今はローマ帝国に支配されているイスラエルが解放されて、ダビデの王国が再び再建される!という期待が、メシアにはかけられていました。
種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
マルコ4:14(中略)20
(中略)良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです。」
ただ漫然と聞くのではない。受け入れるのギリシャ語は、歓迎するという意味も持っています。自発的なのです。
聞き流すことではなく、ただ集中して聞けば良いということでもなく、「聞き従う」です。その後、イエスはこう続けます。
聞き続けなさい!
聞く耳があるなら、聞きなさい。」
マルコ4:23-25
また彼らに言われた。『聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。
持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまうからです。」
ルカの並行箇所にも「聞く耳のある者は聞きなさい」とあります、これは現在形の命令なので、『聞き続けなさい』というニュアンスです。
イエス様は何度も何度も、人々に話しながら「聞き続けなさい」と言われたことが分かります。
ただ聞くだけではない。
信仰を持って、わたしのことばをしっかり受け止めて実を結びなさいという事です。
明かりのたとえ話
小さな小さな信仰でも、持っていれば聖霊の働きでもっと成長させて頂けます。
逆に御言葉を与えられても手放してしまう、持っていられない人は最終的に天の御国へ入ることができません。
この世で持っているどんな栄光も、財産もその時には取り上げられてしまう、失ってしまうのです。
そして種蒔く人の例え話の後、イエス様は続けて明かりの話をされます。
イエスはまた彼らに言われた。「明かりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。
マルコ4:21-22
隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので、あきらかにされないものはありません。
明かりは、「私たちがみことばを受け入れた状態」だと言います。それもそうだと思います。
しかし一方で、明かりとはイエス様ご自身です。
わたしは誕生においても、今の種蒔きの働きにおいても、そして十字架で死んで行く時すら小さい存在かもしれない。しかしわたしは燭台の上で、必ず世を照らし、あなたの人生を照らす。と主イエスは言われているのです。
主イエスの小さな種蒔きの働き
イエス様が2000年の昔に、ガリラヤ地方で蒔かれていた御言葉の種は、弟子たちの中に育ちました。
イエス様の働きそのものは、世界の大きさから言ったら、それこそからしだね1粒程の小さな働きだったかもしれないのです。
それが多くの使徒たちによって世界中に蒔かれて、私の心にも、皆さんの心にも、イエス様の体の一部を担う誰かが、からしだねほどの御言葉を、蒔いて下さったと思います。
これを私たちが受け入れて、聖霊と一緒に育てるとき、燭台の上におかれた光が益々大きく光を放つ様になるのではないでしょうか。
私たちも、蒔かれた種を育てよう
最初は小さい種です。
育っていることを実際見られる訳でもないし、実感はそれほどないかも知れません。
イエス・キリストに信頼して、信仰のからしだねを育てている人の中で、全くイエス様の愛を感じたことがない、イエス様の光を感じたことがない、そういう人を私はまだ見たことがありません。
ましてや天の御国へ入ったならば、そこで受ける神の栄光の輝き、私たちの喜びはどれほど大きいかと思います。
イエス様は約束通り、私たちを罪から、罪の結果である永遠の死から救いに、神であるにも関わらず、一番小さいものとなって来て下さいました。
クリスマスというものが、イベントやお祭りではなく、この福音に心を留める時期でありますように。
一度種が蒔かれたならば、どんな人の、どんな状況の心の中でも、その種が大きく成長し、豊かな実をつけるすることをお祈りします。
イエス様、私たちを救うために来て下さってありがとうございます。
※より詳しい画像と音声はこちらになります。パスワードは webcha です。
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