2月28日:私の主、私の神よ-ヨハネ20:28-

メッセージ
人の出来るもっとも偉大な告白

ヨハネの福音書を通してイエス様に触れてみたいと思います。
使徒たちはそれぞれの視点から福音書を書いていますが、ヨハネもまた独特の目線からイエス・キリストを証ししています。

特に印象的で、かつ「疑い深い人だ」と誤解されている使徒、トマスは実はとても重要な人でした。普通ならスルーしそうな場面で、しっかりと大切な質問をします。トマスの質問があったからこそ知る事の出来た奥義もあるのです!
ヨハネが特に取り上げた、トマスの行動と言葉には深い意味がありました。

ヨハネという人

ヨハネはイエスと親しい人でした。何か特別な機会に3人を選ぶ時には、必ず仲間に加わった人でした。
キリスト教共同体の伝承によれば、このイエスの弟子だったヨハネが福音書の著者であるとしています。

ガリラヤ湖に釣船を持って、雇い人を使えるほど裕福(マルコ1:19~20)だったゼベダイという人の次男で、兄ヤコブと一緒にイエスに招かれ、あだ名を「雷の子」と付けられた、あのヨハネですね。

ですが、実際ヨハネの福音書を欠いたヨハネは、この十二使徒のヨハネなのか、イエスに最初の頃からつき従っていた、別の忠実な証人であるヨハネなのか、ハッキリとは分かっていません。

自分で自分のことを「イエスが愛しておられた弟子」と書くとは、ちょっと考えられないんですね。

ヨハネの手紙の著者、長老ヨハネ

ヨハネの第二と第三の手紙には、「長老から、選ばれた婦人とその子どもたちへ」(第二の手紙1:1)、「長老から、愛するガイオへ」(第三の手紙1:1)とあって、しかもその著者はヨハネの福音書と同じだと考えられています。

使徒ヨハネと同じ名前の、長老ヨハネがいた可能性もあります。

誰が書いたにせよ、4つの福音書は、イエスについて真実を証言する人物、またイエスが約束してくれた、聖霊に導かれていた著者によって書かれている事を、私たちは信じています。

ヨハネの福音書、前半のポイント

ヨハネの福音書では前半、12章位までイエス様は「私と父とは一つです(10:30)」というメッセージが、色々な語り方で繰り返されます。
そしてヨハネの書は、イエス様のされた奇跡を強調します。

パウロの書いた書に大きく影響されてはいるんですが、パウロがあまり重視しない奇跡を、カナの結婚式から始まって、ヨハネは多く取り上げています。

”しるしとしての奇跡”を軸として話が展開していくヨハネの書

さらにその奇跡を、ヨハネは福音書の展開の柱にしています。
他の福音書はイエスの行われた奇跡を、哀れみや同情から生じたように記録していますけれど、ヨハネによると「しるし」は「まことの力」、神の栄光を表わすために行われています。

5000人の供食、盲人、ラザロの奇跡の象徴とは

例えば6章の、『5000人にパンと魚を食べさせた』しるしです。
このパンとは、イエスが「まことの命のパン」であることを伝えたいのです。

イエスが目の見えない人を癒すとき、そのしるしは、イエスが「まことの光」であることを示しています。
11章でラザロを墓から呼び出して命を与えた奇蹟は、イエスが「まことのいのち」であることを示しているのです。

神が私たちにどのように働きかけているか、またイエスとはどういう方であるかを表す為のしるしなんですね。

イエスの奇跡の意味とは

間違った思想への警告

この書が書かれたのが大体AD90~100位ですから、異端や、一部間違った思想も登場していました。
使徒の働きの19章に、ある人たちはバプテスマのヨハネの洗礼しか知らなかったのに、自分達は「この道」の者、クリスチャンだと思っていたような話がありました。
そして、創造と神とは別物だと言う「グノーシス」的解釈もすでにはびこっていました。

段々希薄に、そして変わっていってしまう教えやイエスについて、ヨハネは最後にきちんと押さえておきたかったのでしょう。

ヨハネの福音書とは

よくヨハネの福音書は「愛の書」だと言われます。勿論そうだと思います。
黙示録などを読まれて、神秘的というイメージを持たれる方もいます。でも、実際はそうではありません。

イエスは明らかに人間であって、同時に神である、と主張しているのが、この書です。

誤解されている使徒、トマス

トマスという使徒は、登場回数がそんなに多くない割には、結構印象に残る人です。それは、彼が要所要所で、とても熱い発言をしたり良い質問をしたりするからです。

ディディモとも呼ばれていて、これは双子という意味です。
でも彼に双子がいたという記述はありません。後に、インドへ宣教して殉教しました。

インドのキリスト教徒の数は、ヒンズー教に比べれば少数派であるとはいえ、仏教徒の数よりも多いのです。

シリア、メソポタミアからブラジルの方まで行き、また戻ってエチオピアに行った後、アラビア半島のソコトラ島へ行って、インドへ・・・という信じられない様な伝説もありますが、沢山の神話や伝説が生まれるための何かがあったのではないかと思います。

実際、後に絶えてしまいましたが、1294年にソコトラ島に立ち寄ったマルコ・ポーロは、住人がキリスト教徒だったと証言しています。

そこでデドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子に言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」

ヨハネ11:16

これはイエスが愛するラザロ、マルタ、マリア三兄弟の内の、ラザロが死んだと聞いて、エルサレムの近くのベタニアへ行かれる時の場面です。
この時、エルサレムを巣窟にするユダヤ人指導者達にイエスは命を狙われていました。そこへもう1度行くと聞いて、トマスが唐突にこの発言するんですね。

この発言だけでも、イエス愛を感じます。

良い質問者、トマス

わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」

ヨハネ14:4-5

この質問は秀逸です!弟子の鑑と呼びたいです。
ちなみにイエスが言われた言葉は日本語聖書だと少しニュアンスが違っていて、原語に近い訳は以下になります。

わたしがどこに行くのか、そしてその道あなたがたは知っているはずです。

ヨハネ14:4(私訳)

知っているといわれても、知らない!知りたい!そう思ったトマスは恥ずかしいなんて少しも思わずに聞くんですね。すると、この超重要な答えが頂けるんです。

ヨハネ14:6

トマスが聞かなければ、イエス様からこの発言を引き出すことは出来ませんでした、ここに、弟子と師の理想的な関係を見ることが出来ます。
弟子というのは常に「問う」ことの出来る特権を持っています。

トマスを誤解させているシーン

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。
弟子たちは主を見て喜んだ。

ヨハネ19:19-20

ここで、復活の主イエスの、肉体を持った姿を見て、弟子たちは大喜びするんですが、トマスは何故かその時いなかったんですね。他の弟子達からイエス様が復活した!!と聞きはしましたが、実際に会って確認することなしには、信じようとしませんでした。

「私は、その手に釘の跡を見て、釘の後に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」とまで言いました。
でも私はこの言葉で彼を、「不信仰なトマス」とは呼べないのではないかと思うのです。英語では疑い深い人を指してdouting Thomasという言葉まであります。

トマスは何故信じなかったのでしょうか?トマスが人一倍疑い深かったからでしょうか?
そもそも、触ってみなさいと言われたのは他の弟子たちも同じです。

他の弟子も信じなかった!

わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、良く見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」

ルカ24:39

もし、まかり間違って生き返ったことを信じてしまった後で、ぬか喜びして、後で誤解だったと分かったらそのショックは如何ほどでしょう。
また再び愛する主を失うような経験をしたくなかったトマスは、その防衛本能から上記の発言をしたのではないかと思うのです。
トマスは決して見るまで信じることができないような心の硬い人ではなく、それほどまでにイエス様を愛していたのではないでしょうか。

次に、またイエス様が来て下さる間の8日間、他の弟子たちを横目にして、トマスは内心、物凄く複雑だったと思います。
それにトマスだけがイエスに「見ないで信じる人たちは幸いです。」と叱られたように書いてありますが、同じように他の弟子も責められています。

その後イエスは、十一人が食卓に着いているところに現れ、彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった。よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを、彼らが信じなかったからである。

マルコ16:14

結局他の弟子たちも全員、この時、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメが最初に「イエス様が復活した!」ということを伝えたにも関わらず、信じなかったんですね。


ある意味弟子達は、復活を信じる傾向にある騙されやすい人達ではなかったということです。
弟子達は女性たちに聞いても、信じなかった。
その後目に見える証拠を持ってしても信じようとしなかったのです。復活は弟子達が作ったでっちあげや幻覚でもなかったということが分かります。

トマスの偉大な信仰告白

これは、人が口から出すことのできる、最も偉大な告白です。

トマスはイエス様の復活を信じました。
そして救い主キリストであり、神の子であるイエス様への、硬い信頼を宣言しました。

このトマスの告白が、ヨハネがこの福音書を書いて来た目的を締めくくっています。

見ずに信じた人たち

イエス様はトマスや他の弟子たちが体験できたような、疑う余地のない証拠が、もう与えられない時がすぐに来ることを知っていました。
イエスが天に昇られて父の右の座に座られた後には、全ての者、つまり私たちですが、復活した主を見ることなしに信じなければいけないのです。

イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

ヨハネ20:29

これが、私たちです。

見ないで信じる私たちは、幸いですと言われているのです。
私たちはイエス様の傷跡を見ることも、そこに指を入れてみることも出来ません。ですが、それ故に幸いです。
信じるって、そういうことじゃないですか?

弟子たちの特権、私たちの祝福

この時代、イエス様と一緒に生き、イエス様に質問をして、また傷跡さえ触らせて貰える弟子たちは幸いでした。
でも私たちもまた違う特権と祝福に預かっています。

見ずに信じるという特権です。
そしてイエス様が言われている通り、見ないで信じる人たちは、幸いなのです。
ぜひ今日、あなたのために死んで下さった救い主、イエス・キリストを受け入れて、信頼して下さい。

※より詳しい動画と音声はこちらです。パスワードは webcha です。

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