「良い木と悪い木」の話を読んだことはありますか?
良い木なら必ず良い実をつけ、悪い木はその実で分かる、というものです。一見、良い行いをすれば良いことが返ってくる、その逆もまた然り、という因果応報を思い浮かべてしまいます。
頑張って良い実を結べるようになるには、どんなことをすれば良いのでしょうか? イエス様は本当に、そういう意味で話されたのでしょうか?
マタイ12章33節から、良い実と悪い実について。そしてどうしたら良い実をつけられるようになるのか、ご一緒に考えてみたいと思います。
木を良いとし、その実も良いとするか、木を悪いとし、その実も悪いとするか、どちらかです。
マタイ12:33~37(太字JBE)
(別訳:木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとしなさい。」)
木の良し悪しはその実によって分かります。
まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。
良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。
わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。
あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです。」
33節を私訳しましたのでご参考にしてください。
ここはルカ6章にも並行箇所として書かれている、割と有名な聖句です。
良い木が悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶこともありません。
ルカ6:43~46(太字JBE)
木はそれぞれ、その実によって分かります。茨からいちじくを採ることはなく、野ばらからぶどうを摘むこともありません。
良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。人の口は、心に満ちていることを話すからです。
なぜあなたがたが、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。
良い実とはガラテヤ人の手紙に書かれている、この9つです。
良い木ならば必ず、こういった実をつけるというんですね。
さあどうやったら、こんな実ををつけられるんだろう?!と思いますね。一生懸命修行したり、聖書を毎日読んだり、そういうことが”御霊の実”をつけることに繋がって行くんじゃないかと、そう思ってしまいます。
原因と結果は、因果応報ではない
「木と実のたとえ」は「原因と結果」を表わすたとえです。
ですが、日本人が考えがちな「因果応報」とは完全に違います。このたとえ話で出てくる実は、実は結果ではありません。
原因なのです。
どういうことでしょうか?
まず、一般的な「因果応報」から考えてみます。
因果応報って?
仏教の教え、経典は7000巻以上ありますが、その根幹を貫く教えが『因果の道理』です。「道理」とはいつでもどこでも変わらないものという意味です。
法律や倫理、道徳は、時代や国によって変わるので道理ではありません。万有引力の法則や慣性の法則の様なものを、道理というそうです。
まぁこれは仏教を知る上では重要なことだそうですが、これを踏まえて今知りたい「因果」というのは、原因と結果のことです。
あ!さっきの「木と実のたとえ」のことだ!!と性急に思わないでください。
仏教の考えでは、原因のない結果は絶対にない、逆に言えばどんな結果にも必ず原因があるとするのです。
飛行機の墜落とか、車の事故とか、そういう因果関係もありますが、仏教では幸福や不幸の原因と結果の関係が教えられています。
善因善果(ぜんいんぜんか)悪因悪果(あくいんあっか)自因自果(じいんじか)という3つがあり、読んだ通り、良い原因からは良い結果が、悪い原因からは悪い結果が、自分で蒔いた種は自分に返ってくる、これは自業自得ともいいます。
他人のまいた種の結果が自分に現れる事もなければ、自分のまいた種の結果が他の人に行く事も絶対にないと教えています。
2000年前、頑張って良い実をつけようとしていた人々
結果が全て自分の行い次第なら、頑張って良いことをすれば、良い実がつくようになるのですが、これが人間的な考えというもので、イエスの時代の当時、これを「出来る!」として実践しようとしていたのがパリサイ派の人々でした。
自分たちはモーセの律法をちゃんと守っている、神の御心をおこなっている、と考えていました。
だから自分たちは良い実を結んでいる、と思っていたでしょう。・・・でも考えてみてください。
私たちは、自分が良いと思ったことでも実行し続けるのはかなり難しいのではないでしょうか。ダイエットもそうです、片づけもそうです、子育てで”こうした方がいい”と書いてあることを実践しようとしても、何だか自分の家庭だけ例外なんじゃないか…と思う。ましてや、神様が良いと思われることを行うということは、物凄く難しいと思いませんか。
そもそもが違うんです。
良い実を結ぶ木というのは、元々良い木なんです。悪い実を結ぶというのは、元々その木が悪い木なんです。
「良い」と「悪い」
改めてこの聖句に出てくる「良い」と「悪い」を考えてみたいと思います。
よくイエスは「良い牧者・羊飼い」に例えられます。良い牧者というのは、どういう牧者でしょうか?
良い牧者は、私たち羊を「捜し求め」「捜し出し」「救い出し」「導き出し」「集め」「連れて行き」「養い」「憩わせる」、そういう存在です。
でも木と実の関係でいえば、この良さは「実」の部分じゃないですか?
先ほど何と書いてあったかと言うと、良い実を結ぶのは良い木。なので、この実を結ぶ木は既に良い木なんですね。
結果的に良くなった木、ではないのです。イエスの言われている良い実とは、原因としての、良い実です。
”悪い”木の正体
それを説明しているのがパウロです。
「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」
ローマ7:15~20(太字JBE )
私たちの中に住んでいる罪。これが、悪い木の正体です。
どうしたらいいのか?!
そうだとすると、もうどうしようもないのではと思ってしまいます。
私たち自身の中に罪というものがあり、それゆえ私たちが悪い木であるとしたら、私たちがどう頑張っても、良い実を結ぶことが出来ないのです。
仏教の因果応報のように、自分の行いによって良い結果を出そうとしても無理です。そもそも悪い木が『良い行い=神の基準に達する良い行い』は出来ようがないからです。
解決方法は、自分で解決しようとしないこと!
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
Ⅱコリント3:18(太字JBE)
私たちは自分という人間を自分で造り変えることはできません。御霊なる主、聖霊によって自分を造りかえていただくんです。
どう造り変えられるのか?!
それは、『イエス・キリストが私たちのために、十字架で血潮を流して下さった。罪が赦された!』ということに信頼した時に、私たちのうちに、聖霊の実を生み出してくださる聖霊を頂くことことによって、変えて頂くのです。
神は分けるお方
「良い」が最初に出てくるのは旧約聖書の創世記です。
神は光を良しと見られた。神は光と闇とを分けられた。
創世記1:4(太字JBE)
この光源が太陽でないことは明らかです。
「良し」がヘブル語だと「トーヴ」(טוֹב)です。(マタイではギリシア語が使われているので、形容詞の「カロス」(καλός)となります)
神が光を「良し」と見られたのは、何ででしょうか?
光によって、闇を分けるためなんです。
そのことを「良し」とされました。私たちの感覚でいう良いとは全く異なります。
「闇」は光を理解することが出来ないだけでなく、それを拒絶して、逆らう概念(力)なんです。なので・・・
主につくか、サタンにつくか。中立はない!
このたとえ話の直前、30節でイエスは
わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。
マタイ12:30
と言われています。
聖書には、神の側につく者とサタンの側につく者だけがいて、その中間はいません。神の側につかないと、サタンの側なんですね。
イエスが来られたのは、御父の計画を実現するためでした。
神の国に人を集めようとしない人、つまりイエスに協力しようとしない人は「散らす者としてイエスに敵対する」人たちです。
良い木に変えられるために
私たちが聖書を、歴史書、そして人生において有益な参考書、という立場で読むならば、つまり知的にのみ読むならば、私たちは「変えられる」ことはないでしょう。
神との個人的関係なしに信仰を持ったとしても、それも役に立たないでしょう。
私たちが良い実を結ぶには、それは主ご自身の力による他はありません。
聖霊によって私たち自身を変えていただく、ということです。良い実を結ばせていただく、ということです。
イエスのおられた時代は、まだ旧約聖書の時代でした。もちろん復活とか十字架の信仰などはありませんでした。
でもその時代から一貫して流れているのは、そうした特定の信仰箇条を信じるということでなく、神への信頼ということです。
聖書の最初から、重要なこととして出てくるのは、神に従うこと、神の言葉に聞き従うことです。
私たちは主イエスへの全面的な信頼で、良い木に変えられます。
私たちは光の子として、いつでも主イエス・キリストを信頼していましょう。そして、良い実をつけていきましょう。
※より詳しい音声と画像はこちらより。パスワードは webcha です。
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