今回は選びと救いについて歴史から、みことばから、考えてみたいと思います。
主はアブラハムがまだ”アブラム”だった頃、バビロニア、ウルの地から彼を選び出し、彼を通してイスラエルの民を造られ、律法を与えました。ユダヤ人は選びの民なのですが、なぜ彼らが選ばれたのでしょう?
私たちも選ばれたいですよね。
神の選びの目的とはなんでしょうか。
そして主が、永遠のいのちを受ける人、そうでない人をも既に決定しているのだ、とする”予定説”とは??
イエス・キリストの十字架の真理について、改めて考える機会になればと思います。
ユダヤ人迫害の歴史
よくユダヤ人は、選民だと言われます。神に選ばれた民ということです。
なぜユダヤ人が選ばれたのでしょうか?
いいなと思いますか?
実は、ユダヤ人自身は神に選ばれているということで、迫害に遭ったり苦難にあったりして、これまで大変な苦労をしてきたのです。
聖書66巻は、2巻を除き、すべてユダヤ人の手によって書かれています。また十二弟子や初代教会の信者はほとんどがユダヤ人でした。ですが、異邦人信者の数が増えていくに従い、異邦人が指導者の立場に立ち始めます。すると、もともとあったユダヤ性が徐々に失われていきました。
「ユダヤ人はキリストを殺したために、神から呪われる存在となった。神はユダヤ人を捨て、代わりに教会を選民とした」という神学が教えられるようになり、こうした土壌の中で、反ユダヤ主義が形成されて行ったのです。
両者の溝は、379年の「キリスト教のローマ国教化」によって決定的になりました。
AD379年、キリスト教がローマの国教となりました。ユダヤ教徒は公職から追放され名誉をはく奪され、これが最初の反ユダヤ主義的政策となったのです。11世紀から13世紀の間にあった、8回の大規模な十字軍遠征の中では、イスラム教徒だけでなく大勢のユダヤ人が虐殺されました。
イギリス、フランスでは国外追放令、スペインでも拷問をによる改宗を迫るなど、大きな迫害の中、ユダヤ人たちは東ドイツや東欧などに逃げていきました。
14世紀、ペストの大流行時にもユダヤ人の大虐殺が行われたのです。
1776年アメリカで、1791年フランスでユダヤ人に市民権が与えられましたが、依然として差別は残りました。
19世紀に誕生した新しいユダヤ人の迫害は、「民族主義」が発端です。1871年、ロシアにおいてユダヤ人大量虐殺(ポグロム)が発生し、これは1903年にも再度起こりました。
極めつけはナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人絶滅政策)で、600万人のユダヤ人が殺害されました。
選びには主の「目的」がある?!
選びには主の「目的」があると考えると、イスラエルの民が主に選ばれた理由も段々解けてきそうです。
もしこの「選び」が、救われるためだけなら、それは「えこひいき」以外の何物でもありません。
①そもそも、「イスラエル人」という民族集団は初めからいたわけではありません。
神がカルデアのウルという所にいたアブラムという個人を選んで、そこから移動させ、イサク、ヤコブと続いて、ヤコブの子孫たちがイスラエル人たちになって行きます。
自然発生的にできた民族ではなく、神の作られた民族がイスラエル人なのです。
古代イスラエルは、2つ合わせてオリエント文明)という、メソポタミア文明(人類最古、バビロニア、アッシリア、ペルシャ帝国等)とエジプト文明(ナイル川流域に発展、青銅器、ピラミッド、ヒエログリフ)の間にあって、きわめて弱小でした。。
イスラエルはせいぜい、エジプトの碑文には被征服民族の一つとしてしか記録されていない。当時のイスラエルは、エジプトが記録するまでもない民族でした。
取りに足りないもの
神は「とるに足りない者」を選ばれて、神の栄光を表されるために使われます。
旧約聖書の士師記という書に、ギデオンという若者が出てきます。彼は12部族の中のマナセ族に属していたが、その中でももっとも弱い士族に属し、更にもっとも若かったのです。
そのギデオンに神は「力ある勇士よ」と呼びかけ、神の栄光を表すため選び抜いた300人の兵士で、13万5千のミディアン人兵士に勝たせました。
このように、神は「とるに足りない者」を選ばれて、神の栄光を表されるために使われることがあります。
「神が誰かを選ぶとしたら、それは第三者の為だ。その人自身のために選ぶのだったらこれはただのえこひいきだ」
これは ヨセフ・シュラム氏という、ユダヤ教正統派の本格的な教育を受けた、数少ないメシアニック神学者の言葉です。
神は、イスラエル人だけを救おうとして選ばれたわけではありません。
イスラエルを通して、全世界を救おうとされた。この視点で聖書を見ることが、大事なポイントの一つではないかと思います。
わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。
エゼキエル36:23
わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。
エゼキエル36:23にはイスラエルが選ばれた目的が書かれています。
誇るための選びではないのです。この選びには使命、神に託された責任があります。
私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。
ローマ9:3
ゲヘナ行きを覚悟し、いのちの書から名前を消し去られてもいい、というつもりでパウロは祈りました。
いつかユダヤ人に福音が宣べ伝えられる日のために、異邦人へ伝道する働きをしたのです。
イスラエルは今でもこんなに小さな国です。聖書時代よりも東側はさらに小さい面積になっています。
周囲はイスラムの国、アラブの国に囲まれています。しかし、大きくて人数も多い国が勝つのはある意味当然です。小さいからこそ、自分たちの力によらず、神が勝利される、ということがハッキリと分かるために選ばれたのです。
クリスチャンの選びー私たちも選ばれているー
救いには、誰もが招かれています。
私たちは主によって先に選ばれているのですが、「自分たちが選んでいる」かのように、それを経験していると思います。クリスチャンホームで生まれても、最終的には自分で決めてイエスに信頼する者になった、という方が多いのです。
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
ヨハネ15:16
でもそれでは、このみことばと矛盾するように思えませんか?
矛盾しないのです。
クリスチャン全員は、キリストの意思を自らの意思として、キリストのからだに加わっているからです。
キリストに「任命」された私たちにも何らかの目的があり、そのためにキリストがともにいる事が約束されています。
神の摂理と予定説
摂理(はからい)・・・人の自由な意思による生活の中で、神が人間には不思議とも見えるご自分のご計画を以て、すべてを掌握しておられる。
すべてが偶然ではない、というのはルツ記の学びの際にも出てきました。
ルターは、「信仰によってのみ神に義と認められる」という真理を強く主張しました。この心理はヨハネ1:12、ガラテヤ3:26を始め、聖書の多くの箇所からその真理であることを証明することが出来ます。
予定説・・・予め神は、永遠の昔から救われる者と救われない者とを選別して創造された。
プロテスタントの神学者、ジャン・カルヴァンはそれ以前にもあった「あらかじめ予定された救い」の思想を体系化していきました。すべてが彼のアイディアではありませんが、その意思は後の神学者にも受け継がれました。
カルバン曰く「人は堕落しているので、全く善を行なうことができないでいる」「神の選びがその人を救う」という主張からさらに、「神に選ばれた者のみが救いを得ることができる」「信仰を最後まで維持できるのも、神の選びによるものだ」というふうに展開していったのです。
摂理と予定論とは全く違う
神が、ご自分のご計画の内にすべてを掌握しておられるというのが摂理です。
全ての人の道筋が硬直的に決定している、というのが予定論です。
この2つは、人の選択を強調する”アルミニウス主義”と、予定されているとする”カルバン主義”が、文字通り激論を繰り広げるところでもあります。
しかし、もっと御言葉に柔軟になりましょう。
聖書を最初から読むならば、神がすべてを握られているという主権と、人間の選択の両方があるということが分かるはずです。
イスラエルの最初の王、サウルはハッキリ言って最後まで主に従う事の出来ない人でした。ユダも、弟子に選ばれる前からイエスを売り渡すことは、神様には分かっていたと思います。
でも、じゃあ初めから選ばなければよかったんじゃないかというのは人間の論理です。
人の理屈に神を当てはめて考えることは、身勝手なのではないかと思います。
人間の選択、そして神の選びと主権、これは聖書を見るならば矛盾せずにどちらも存在するのです。どちらしかない、どちらかが間違っているという考えは争いを生むだけです。
救われる方法
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
ヨハネ14:6
ヨエル書には「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。」とあります。
私たちは、御ことばを聞き、また読み、自分がいかに神様の的を外していたかということに気付きます。そしてその罪のためにイエス・キリストが十字架に掛かって死んで下さったこと、そして復活されたことを信じた瞬間、救いは起こります。
これを”新生”、(新しく生きる)と呼びます。
新生に必要な4つ
1. 神の御心
これは新生の源です。あなたを救いたい!という主のみ心、憐れみがなければ何事もなされないのです。
ヨハネ 1:13、5:21、Ⅱコリ 5:17~18、ヤコブ 1:18
2. 聖霊
次にどうしても必要なのは、新生の働きを行うお方、聖霊です。聖霊が力づけてくださらなければ、自分自身の力ではイエスが主です、と告白できません。
ヨハネ 3:5~6、テトス 3:5
3. 神のことば
新生するためには、何を信じなければならないかを、自分が分かる言葉で理解しないといけません。信仰の内容を教える神の言葉が必要です。
テトス 3:5、ローマ 10:17、ヤコブ 1:18、Ⅰペテロ 1:23
4. 信仰 (信頼)
聖霊が新しい命をもたらすことを可能にする、人間の側の唯一の条件が”信じること”です。しかしこれさえも、”~しなければ!”ではなく、”~すれば救われますよ”という結果です。
主は皆にこの救いを受け取って欲しい、信頼して欲しいと思われていますが、決して無理強いされない方です。
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
エペソ2:8~9
行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
恵みによって、信仰のみ、です。
信じれば救われるという保証
・すべての人に福音が提供されている
マタイ 11:28、28:19 使徒 17:30~31 ローマ3:22 マタイ22:1~14(すべての人が婚宴に招かれている)
・メシアには救う力がある
マタイ 11:28、ヨハネ 6:37、39~40
エペソ2:12~では、契約の民であるユダヤ人と、契約からも神からも遠かった異邦人が、キリストの血によって近い者となったことが書いてあります
15節では、ユダヤ人と異邦人クリスチャンにおける「新しい一人の人」が造り上げられるとあります。
私たちはイエス・キリストを通して、神の家族となるのです。
それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。
エペソ3:6
救いを受け取りましょう!
こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。
エペソ2:19
こうあります。イスラエルの民だけではない、異邦人も共に神の食卓にあずかれることが、聖書には書いてあります。
イエス・キリストに信頼した時に着せられる義の衣、これを着て、神の婚宴に参加しましょう!
イエス・キリストを通して神の家族となるのです。
※より詳しい動画と音声はこちらより。パスワードは webcha です。
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