6月21日:終末論-携挙編-

メッセージ
不信者との離別

新型コロナウィルスがパンデミックを起こしてから、世界中の教会や、教会でない所でも「終末」という言葉が流行っているようです。Youtubeなどで既に終末論について勉強されている方もいると思います。先週はエゼキエル書38章に記されている戦争、通称エゼキエル戦争についてお話して頂きましたので、今回はその後に起こる『携挙』について学んでみたいと思います。

終末とは

聖書に書いてあるこの世の終わりは、全てのものが絶滅し、死に絶えて、それ以後は何も無くなって無となるということではありません。人による人の支配が終わり、完全なる方、神ご自身が支配して下さる世界へ移ることです。
そのスケジュールが、聖書には預言してあります。

なぜ、終末学ぶことが重要なのか

なぜ終末を学ぶのか1

私たちは終末の大変な時期には、今回学ぶ“携挙”という一大イベントによって地上にはいないのです。それでも終末を学ぶことはなぜ重要なのでしょうか?!それは、聖書には全体を通して主のご計画が記されているのですが、それを最後まで知ることによって私たちが如何に恵まれた時代に生きているかを実感、感謝することが出来ます。
また、艱難の前に出来るだけ多くの人にイエス・キリストを受け入れて欲しい、この祝福を分けたい!という伝道の重要性も理解出来るからです。

なぜ終末を学ぶのか2

人間はこれまで、神抜きにして平和を作り、幸福と繁栄を望めると思って来ました。第一次世界大戦前のヨーロッパにはユートピア思想が盛んであり、大戦後は国連の前身も出来ました。平和のために様々な努力をしたのです。しかし、その結果はどうでしょうか?
もう1つの世界大戦が起き、今でも世界を見渡せばどこかで戦争、内戦、クーデター等が起こっています。

主がいつかこの世界に手入れて下さらなければ、いずれ人類は自らを完全に滅ぼしてしまうでしょう。しかし聖書には、人類が一旦滅亡するとはどこにも書いてありません。
終末はむしろ、我々が住んでいる不安定な家の取り壊しです。そして主は、ご自身という、岩のような堅固な土台の上に、良い材料で家を建て直そうとしておられるのです。

問われる時

世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。

Ⅰヨハネ2:17

終末のその日、もしまだあなたがイエス・キリストに信頼をしていないならば、神の側につくかこの世の側につくか、もっとも問われる時です。

時が近づいている

1枚絵のような終末預言

マタイの福音書24章と25章には、イエスが語られた終末についての教えがまとめられていますが、その教えの中には、A.D.70年のエルサレム神殿の破壊とエルサレムの町の滅亡の出来事、そしてキリストの空中再臨による教会の携挙のこと、そして7年間の反キリストによる大患難時代のこと、キリストの地上再臨と千年王国のこと、さらに、最後の審判といった出来事が同じく一枚の絵のように記されています。
上記の図では、何がいつあるのかはっきり分かりませんね?

時間軸の中で見た終末預言

しかし将来に起こる事を私たちは時間の中で経験するため、すでに実現したこと、まだ実現していないこと、その順番などを整理して知っておく必要があるのではないでしょうか。
2つ目のの図では、山脈を横から見てみました。これで少し、イエス様が話された終末の預言がスッキリ見えてくるのではないかと思います。
AD70年のエルサレム陥落から2000年近く経ちました。私たちは今、空中携挙の前の時代に生きているのです。

携挙とは?

携挙とは、「キリストが空中に再臨する時に、地上にあるすべての真のクリスチャンが天に挙げられ、不死の体を与えられる」ことを表す、神学用語です。

携挙とは

初めてイエス様が地上に来られた時のことを、「初臨」と言います。再臨とは、イエス様がこの地上に来られる事を現す神学用語で、携挙とは違い、それが起こるのは終末の一番終わりです。

携挙関連聖句

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

Ⅰテサロニケ4:16~17

「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、 死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

Ⅰコリント15:51~52

これらの聖句から、よほど比喩的に解釈しなければ、携挙を否定できないことが分かります。

携挙はいつあるのか?

携挙の時期、3つの立場

①艱難中期携挙説:艱難期7年の間、3年半が終わり大艱難がスタートする前に携挙される、という説で、Ⅰコリント人への手紙15:52の『ラッパ』を、黙示録(啓示録)に書いてあるラッパと同じだと解釈しています。しかしこれが書かれた当時、まだパウロは(艱難時代の)ラッパの事を知りません。ヨハネはまだ黙示録を書いていないのです。またラッパの後の状態も違います。

②艱難後携挙説:キリストの地上再臨と携挙が同時に起こるという説です。ヨハネ16:33を根拠にしていますが、この”苦難”はサタンから来る苦難であって、神の御怒り(艱難)ではありません。黙示録の4~5章には、艱難時代に入る前に天で主を礼拝している姿が書かれています。

③艱難前携挙説:7年の艱難が始まる前に、イエス・キリストを信じる者たちが天へ上げられる、という説です。
-教会がこの時代に無いのは、艱難時代というのは神の怒りだからであり、また艱難時代のことを書いている聖書箇所の中で、教会が出てくる個所は1つも無い、というのがその主な根拠です(黙示録6章~19章)。
根拠となる聖句は以下ですⅠテサロニケ1:10/Ⅰテサロニケ4:13~18/Ⅰテサロニケ5:9/創世記18:23/ローマ書5:9/ルカの福音書21:36/ヨハネ14:1~4

艱難前携挙の根拠となる聖句

さらに、キリスト者が艱難を受けないことを説明するならば、創世記でソドムトゴモラの町が主の御怒りに触れて滅ぼされる際に、アブラハムが甥ロトを助けようとして主にすがった際の聖句を思い出して下さい。

主に食い下がったアブラハム

「あなたは本当に、正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くされるのですか。」

創世記18:23

主は、10人正しい者がいたらその正しい者のために滅ぼさないと約束されました。神のご性質によって、正しい者は正しくない者と共に裁かれないのです。従って、教会は神の御怒りに逢いません(創世記18:23/ルカ17:28~29)。従って、教会は艱難時代にはこの地上にいないのです。

背教?!それとも・・・。聖書における翻訳的な根拠

更に、『背教』と訳された原語「へ(ή)・アポスタシア(άποστασία)」をどう訳すかというのも大きな問題です。Ⅱテサロニケ2:3には、『 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。』と書いてあります。まるで主の日を待ち望む人が背教をも期待するような書き方です。

「背教」(新共同訳は「反逆」)は、むしろ「出発」「移動」「旅立ち」『離れる」と訳すべきで、研究者も「冠詞(ヘ)付の離別」とは「携挙」を意味していると述べています。ある地点から離れて行く、というイメージです。よってこの節は『なぜなら、まず離別が起こり、~』と訳すべきなのです。
以前のKJV(King James Version)の聖書は”離れる”と訳されて来ましたが、1611年の訳から変わってしまいました。

キリスト者が友人知人、家族からさえも離別して旅立った(携挙)後に、主の日が来るのです。

背教?それとも?

ユダヤ式婚礼から携挙を見る

黙示録19章にある「小羊の婚礼」と「小羊の婚宴」の違いは、ユダヤの伝統的な婚礼のしきたりから考えてみましょう。

婚姻と婚宴

最後の晩餐:婚約式
「これを取って、互いに分けて飲みなさい。あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」とイエスは言われました。ユダヤ人の花婿は、婚約式から結婚までは葡萄で作ったものを一切飲みません。

空中再臨と教会の携挙:結婚
当時の結婚は婚約から約1年間、花婿が花嫁のために家や畑を用意します。そして父親が許可を出して、花婿が花嫁を迎えに行くことができるのです。

7年間:ハネムーン
花婿が準備した新居で7日間のハネムーンを過ごします。結婚の祝宴は1週間のハネムーンが終わってからなのです。ハネムーンの期間が終わると地上では、悔い改めた神の民イスラエルが「小羊の婚宴」に招かれます。

結婚に関する例え話

賢い娘と愚かな娘のたとえ話

そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
そのあとで、ほかの娘たちも来て。『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

マタイ25:1~13

置換神学ではこの娘を教会と置き換えてしまいますが、それは違います。またこの娘たちは全員が花嫁ではありません、恐らく花嫁の付き添いでしょう。全員が1人の花婿と結婚できるわけがないからです。
油はよく”聖霊”にも例えられます。
イエス・キリストを受け入れたユダヤ人、メシアニック・ジューのフルクテンバウム師の解釈によると、この賢い娘たちは艱難期に主を信じた異邦人のキリスト者、愚かな娘たちは信じなかった異邦人だそうです。なぜユダヤ人でないかというと、イスラエルの民には艱難という裁きを通して民族的に悔い改め、イエスの御名を呼び求めるようになるからなのです。

目を覚ましていましょう!

主のことばを信じて、目を覚ましてひたすら主を待ちましょう!それが空中再臨(携挙)の時であっても、地上再臨(艱難後)の時であっても、主を待望する者たちの不変の姿勢です。

携挙がいつあるか知る人はいません。イエス様でさえ知りませんが、それはいつでも起こりうる状況になっています。
そしてそれは、艱難時代の前に起こります。
目を覚ましていましょう。そして、その時まで1人でも多くの方がイエス様に信頼出来ますように、主を伝え続けましょう!

※より詳しい画像と音声はこちらよりお聞き頂けます。パスワードは webcha です。

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