救い、身代わりの三条件
①人間である
人の命には、必ず人の命が身代わりとなる必要があります。例えばドナーです。
②罪が全くない正しい人
不良品を。別の不良品で交換することはあり得ません。同じように、命の身代わりである命は不良品ではあり得ないのです。
キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。
Ⅰペテロ2:22
ペテロはイエスの弟子であり身近にいて、良く見ていたでしょう。その人の証言ですので、確実です。
③人間以上の存在、神
1人の救いではなく、全人類の救いのために死なれました。こんな事は人間にはできません。
キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。
Ⅰペテロ3:18
この”罪”は複数形です。私たちの罪のことを指しています。
あなたは生きよ!
エゼキエル16章ではエルサレムを神の妻として例えています。主は血まみれで、自分の地の中でもがいている自分を無条件に愛し、祝福して下さいます。(後にエルサレムは主の祝福を頂いていたことを忘れ、自分の力によって全てをなしたかのように思い始めました。そして大国と同盟を結ぶ、という霊的姦淫をするのです)
もう自分だけではだめだ、と思っていたのは私たちだけではありません。なんとあの大預言者イザヤも、その思いからスタートしたのです。
「ああ、もうだめだ。から始まる人生」
「ああ、私は。もうだめだ。」というのは直訳すると「わざわいだ。私は滅ぼされる」です。(2017年度版はの聖書は「ああ、私は滅んでしまう」となっています)
イザヤは自分が”唇”が汚れた者だと言っていますが、これは”唇”から出て来る「ことば」も含んでいます。つまり、「唇が汚れている」とは、「心も汚れている」ことなのです。そんな状態で主を見たら、滅ぼされてしまうと思いますね。
しかし、主は祭壇の上から取った炭でイザヤの口を清めて下さいます。この祭壇の上では何をするでしょう?そう、罪の犠牲となる生贄を焼くのです。その生贄を焼いたことによってできる炭によって、
~あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」
イザヤ6:7(抜粋)
となるのです。
神からの一方的な恵み、復活の主、イエス・キリストにより私たちの罪が赦されることの型です。
あなたの絶対的な価値
わたしの目には、あなたは高価で尊い。
イザヤ43:4
わたしはあなたを愛している。
だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。
人は、他人にもそして自分自身にも、自分の絶対的な価値が分からないのです。
惨めさから始まる人生
私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
ローマ人への手紙7:24~25
私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
パウロの新たな人生のスタートは、目が見えていなかった頃の惨めな自分の自覚でした。自分の惨めさや、失敗や、誇るところのない、心の葛藤などはそのままに、ローマ書7章25節では「神に感謝します」と宣言しています。私たちはそのままで良いのです。
私たちの罪を購われるために生贄の子羊となり、たった1回死んで下さり、そしてよみがえって下さったキリスト・イエスに感謝します!
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