今回はイエス様に信頼した後、つまり聖霊を受けて救われた後、私たちが歩むべき道について考えてみたいと思います。
前回「神からのものかためしなさい」というお話をしましたが、今回もそれに関連して「御霊の実」が出てきます。
行いは必要じゃないの?やっぱり必要なの?と迷っているあなた、もしかするとまだ、「宗教」に混乱させられているかも知れません。
だからどこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。
黙示録2:5
これは黙示録で、第一義的にはエペソの教会に宛てて書かれた言葉です。初代教会は「行いの伴う信仰」を強調していました。
でも、このテーマで書かれたヤコブの書をルターは「藁の書」として軽視しました。
イエスの十字架、血潮、そういったものが一切書かれていなかったからです。
でも「行いの伴う信仰」というのは、実はとても大事なのです。
信仰のみで、本当に大丈夫?
ルターの、この「信仰のみ」精神を引き継いだのは、現代の福音派と言われる教会です。
福音派とは、いわゆる「穏健なプロテスタント保守派」であり、「聖書の言葉を絶対的な真理と受け止め、一字一句を大事にする人たち」ですが、ともすると「行い」の方は軽視してしまいます。
「信じているから・・・もう救われているから(何をしても、また、何もしなくとも)大丈夫」
「クリスチャンは救われた罪びとだから、罪を犯すのは仕方ない」と罪を犯すことを妥協したり、主への服従を軽視する傾向がないでしょうか?
でも聖書全体は「良いことを行う」ことや、「主に従順であるように」という命令で満ちています。
クリスチャンは、救われるために善い行いをするわけではありません。本当のクリスチャンはむしろ、救われたので善い行いをするのです。
私たちの義ではなく、キリストの義が私たちを通して現れるためです。これは人の手による宗教とは全く違う発想です。
私たちは自分の救いを得るために善い行いを使ったりしません。
関連した聖句
行いが重要だと書かれていると思われる聖句を挙げます。これ以外にもあります。
艱難期のことについて書いてある聖句も多いですが、これは未来の、艱難にあってだけのことではありません。
色々な解釈を見ると、ここは永遠の救いが失われることについて書いているのではない、とか、これはクリスチャンのことではないとか、行いの伴わない人と言うのは、最初から救われていなかったのだ(カルヴァン派)、と説明したりしています。
でも、先日のメッセージ「霊を試しなさい」で出て来た偽預言者・偽教師は救われた人たちの中から出て来るんでした。
初代教会の人たちは、一旦救われても、その救いを自分から手放す可能性もあると当然のように聖書から読み取っていました。
以下、少し解説してみます。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
マタイ24:13
この状況は艱難中なので、その中で信じた人たちのことを言っています。
私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。
Ⅱコリント5:10
クリスチャンも皆、「キリストの御座の裁き」を受けます。
これはイエス・キリストに信頼する人であれば、救いに関することではなく、地上生涯をクリスチャンとしてどう過ごしたかが評価され、報酬が与えられる時です。
黙示録20:11の未信者に対する「白い御座の裁き」とは違います。
試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。
ヤコブ1:12
「いのち」ではありません、「いのちの冠」という報酬のことを書いています。
ただ、主を信じる者たちも主の御前に出ることは事実です。
行いは、何を示すのでしょう?
悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えてきました。
使徒の働き26:20
救われた後の(ここ重要)行い、しかも強いられてするのではない、愛から出る行いは、それを見る人、聞く人への伝道、1番の証になることは勿論です。
ですが例えば、こう考えたことはありませんか?
今日沢山の、(日本では少数派かも知れませんが)、クリスチャンがいます。
口々に「私はイエスに信頼する」とか「主イエスの愛を受け取って、生まれ変わった」とか言っているとします。大変結構なことです。
ですが、その人が本当に生まれ変わったのかどうか、どこで判断すればいいのでしょうか。
「使徒の働き」の中で異邦人(ユダヤ人以外)が救われた時には、直ぐにそれと分かる現象があったと思います。恐らく異言でしょう。
それも異邦人にとっての異言なので、この場合ヘブライ語で賛美の言葉が出るとかじゃないかと思うのですが、だからピリポやペテロも、この異邦人が救われた!と直ぐに分かったのです。
今日、救われた瞬間に異言を話す人というのはまれだと思います。一生話す必要のない人も、いると思います。では、どうやって救われたこと、永遠のいのちを頂いたことが分かるんでしょう。
主イエスの真実によって、本当に救われたことの証し、つまり御霊の実が何らかの形で実をつけていかなければ、その信仰は、空っぽではないでしょうか。
ヤコブの言った「行いのない信仰は、死んでいる」というのはこういう事です。
「この道」という生き方
今日の福音主義の教会にも、この世と調子を合わせる、いわゆる世俗化が沢山見られます。
「私たちはこの世のものではありません」というのはクリスチャンとして聞こえが良いですが、実際そうだと言うよりは、ただ、聖書での理論上、そうなんだと言っていることの方が多いのではないでしょうか。
定期的に教会、集会へ通っていることを除いては、真面目で、誠実で、温厚なノンクリスチャンとなんら変わりない生活をしているのが、今日の世俗化したクリスチャンです。
ノンクリスチャンと同じ娯楽を鑑賞して、ノンクリスチャンと同じように、この世の問題を心配して、同じように物質主義を追求しています。
でも、使徒の働きの時代、「この道」の人たちはそうではありませんでした。
世間と全く違う原則、価値観で生きていました。
「紀元3世紀に破壊的な疫病が、古代世界を席巻した時、病人を看護したのはキリスト信者のみであった。彼らは自らも感染するかもしれない危険を冒して介護に当たったのであった。それとは対照的に、異教徒たちの多くは、家族の中に感染者がでた場合、わが身を疫病から守ろうと、まだ息のある感染者を道端に捨てていたのである。」
初代キリスト教徒は語る: 初代教会に照らして見た今日の福音主義教会 デイヴィッド・ベルソー著
この道の者たちは普通じゃない価値観で、生きていたことが分かります。
本来、キリスト教は「生き方」だったのです。
彼らの生き方、そして死をも厭わないイエス・キリストへの献身、それらが一番の証であり、伝道でした。
この道からキリスト教へ
「キリスト道」の公認化、国教化、それに伴う世俗化により、「キリスト道」は「キリスト教」になってしまいました。
「生き方」が「教理的正しさ」「儀式的宗教」を保持、追求することへと移行していったのです。
「キリスト教においては、神学が、霊的に弱い教会の最後の逃げ場である。神学には、信仰も、愛も、犠牲も要求されない。霊的にもっとも強靭な信者と同じように、神と真の関係を持っておらず信仰のない『キリスト教徒』も、教義の一覧に知的同意をすることができる。だから、教会が弱体化するにつれて、教義にますます強調点が置かれるようになっていった。」
初代キリスト教徒は語る: 初代教会に照らして見た今日の福音主義教会 デイヴィッド・ベルソー著
イチジクの木を呪ったイエス
この話しには終末についての意味も隠されていますが、行いについてだけお話すると、まずこのイチジクに葉はありましたが、実はありませんでした。
葉はとても重要です。
中東では日射しがとても厳しいので、葉が無くては実を保つことが出来ないのです。特にいちじくの木は、実は葉の下に育つそうです。
だから葉に何も悪いところはないんですが、それを食べることは出来ません。
葉は必要です。
でも、どんなに良い葉、どんなに素晴らしい葉っぱでさえも、実が無いことを補うことは出来ないのです。
注目しないといけないのは、行いというのは、実がなっていることの証拠です。イエス様はいちじくの木のたとえを見て、学べとは言われませんでした。
まとめ:信仰と行い
今日的な教会や牧師、神学は『一度キリストを心に受け入れれば何をしても、しなくとも、大丈夫。』『過去に信仰告白(決心)をしていれば、救いを失うことはない。』と印象付けます。それは確かに間違ってはいませんが、聖書で言っていることの一部しか紹介していないのではないでしょうか。
聖書は、継続的に神・キリストに信頼し、愛し続けるようにと言われています。信頼していれば、私たちが実をならせようと頑張る必要もありません。
実をならせて下さるのは御霊ですから、御霊に信頼していきましょう。
※より詳しい音声と動画はこちらより。パスワードは webcha です。
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