今年は東日本大震災から10年目です。
どなたにとっても、この10年間というのは特別な10年だったと思います。特に、あの震災を身近に感じられて、大切な人や大切なものを亡くされて、その後何年にも渡って、また現在に至るまで大変な生活をされている方にとって、10年ひと昔では済まない思いだろうと思います。
私は神奈川県に住んでいたのですが、私の一家も震災で大きく人生が動きました。いまだにあの日のこと、それからの日々ことは、鮮明に思い出します。
特に子供が後2か月で産まれるという時期でしたので、妻は1万を超える余震で体調が悪くなり、また色々な対策に必死でした。
今回は震災のことや、悲しみ、痛み、苦しみについて触れます。
311のだけでなく、色々な災害の画像も出ますので、お気を悪くされる方がおられるかも知れません。始めにお断りさせて頂きます。
言語を絶する状況で
このメッセージを作るにあたって、いわき市、南相馬市、南三陸町、大船渡市、宮古市、気仙沼市、陸前高田市、釜石市等を襲った当時の津波の映像を見ました。
更に、地震発生時の各地の映像、ビルが柔らかい飴のように揺れている、アスファルトの地面が割れて、上下に動いている、物が降ってくる、多くの人がパニックになっている映像を見ました。
そして福島第一原発の1号機から3号機のメルトダウン、水素爆発する様子(1,3)や、「電話が官邸に繋がらない」という吉田所長の声、「どのみち吹っ飛ぶ」という会議の様子も再度見ました。
どの映像も言語を絶するものです。
神様、この瞬間、あなたは何をしていらっしゃるのか!と叫びたくなるような映像ばかりです。
目覚ましい日本の復興
同じ年の2月22日にニュージーランドでカンタベリー地震があり、クライスト・チャーチ市でも大きな被害のありました。
そこよりも随分早く色々な所が直されて、再建されて、綺麗になって行きました。
カンタベリー地震
ニュージーランド、クライストチャーチの写真です。震災直後、倒壊した建物の粉塵が舞い、市は煙で包まれました。
大体、阪神淡路大震災と同じ規模の地震だったそうです。小規模なビルが破壊されやすい振動で、クライストチャーチ大聖堂など歴史的建造物も大きな被害を受けました。
ここは日本人建築士の坂茂(バンシゲル)さんがボランティアで設計した、防水・防火加工のダンボール素材の仮設大聖堂で有名です。
日本人の被災者と、取り残された家族
クライストチャーチの市街地にある、6階建てのCTVビルは、クライストチャーチ大聖堂のほぼ向かい側にあります。
ずさんな耐震設計の欠陥建築でした。強度の検査もずさんで、4階の語学学校に通う、日本人28名を含む、韓国、中国、イスラエル、フィリピン、タイの方が亡くなられました。
去年ようやく、クライストチャーチのリアン・ダルジール市長は遺族と面会して、非公開で謝罪されました。現在ビルの跡地は追悼場所として整備されています。
日本で東日本大震災が1か月後にあったので、遺族たちは完全に取り残された形で、責任の所在をずっと戦っていらしたのです。
悲劇の規模が大きい、小さいにかかわらず、苦しみは、一人一人を襲います。
そしてそれが起こるとき、私たちは「なぜこんなことが私に起こるんだろう」「神なんかいないんじゃないか」「いるとしたら、今何をやってるんだ」と考えます。
ヨブの問い
誰よりも苦しみを受けるのにふさわしくなかった、ヨブという人がいます。
神を恐れる人で、誠実で、悪から遠ざかっている人です。この人はだれよりも多くの理不尽な苦しみを受けましたが、ヨブの「なぜですか!」という問いに、神様は説明はなさらないのです。
何故、聖書は、苦しみについて論理的に説明していないんでしょうか。
「どうして善良な人たちに悪いことが起こるのか」、という疑問に殆ど答えられていないように見えます。
神の存在を全く信じていない人、無神論者とか懐疑論者といった人。また、メシアはまだ来ていない、というユダヤ教徒のような人たちは、『地球上が悲しみにあふれているという事実が、神がいない証拠だ。またはメシアはまだ来ていない証拠だ』と言うのですが、実際、聖書はそういう人たちよりも強く、それを問うています。
E・スタンレー・ジョーンズ
20世紀にインドで活躍した宣教師、E・スタンレー・ジョーンズという人は生涯かけて東洋哲学を研究して、日本にも4回以上来ているそうですが、マハトマ・ガンジーとも友人で、よく対話したそうです。
彼曰く、『ヒンドゥー教と仏教はすべてのことを説明できるが、すべてが説明前と変わらない。ですが、キリスト教はほとんど説明しないにもかかわらず、すべてを変える』。
「なぜ」を知った時に起こること
弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
ヨハネ9:2
もしこの答えが「男の罪」「両親の罪」のどちらかだ、と答えが出た場合どうだったでしょうか?弟子たちは、”自分たちの方が道徳的に上だな”と考えるだけだったと思います。
イエス様は罰として与えられる苦しみを否定されました。そして、「この男の人の目が見えない」、という状況に注意を向けさせました。
私たちは何か起こると、すぐにその原因に引き寄せられます。
2011年に起きた震災も、その後10年も、悲しみや苦しみや理不尽が続く理由は何かあるはずです。でも、じゃあどんな理由だったら納得できるんでしょうか。
勿論東電は、メルトダウンに繋がった原子炉の設計上の欠陥であるとか、そういったことはきちんと解明するべきだと思います。2019年9月にいったん無罪になった旧経営陣の刑事裁判ですが、2020年には国の責任が認められたのです。
見たくないデータを見なかった国と東電の姿勢が、はじめて指摘された画期的な裁判でした。
しかし、その間にも苦しんでいる人たちはどうなるんでしょうか。
ヨブ記では、災難を神の罰だとする理論を、ヨブの友人たちが延々説きます。
前に、救われる人とそうでない人は予め決められているのだ、とする、予定説をお話した時に出て来た『カルヴァン派』の人たちは、「降りかかる悲劇も神のみこころなんだ」と説明します。
もしそれが本当なら、イエスだって困っている人にそう言ったはずです。
「目が見えないことを受け入れなさい」「長く続く病を受け入れなさい」そういう論法で説得したはずです。
でも、聖書にはそう言った記録はありません。
イエス様はいつでも癒されたのです。
共に歩まれる神
以前、笠原さんがメッセージで、400、400、1900という数字のことを話されました。
400年間エジプトで奴隷として苦しみ、旧約聖書から新約まで、400年間の沈黙の期間がありました。
エルサレムが陥落して、もう一度イスラエルが建国するまでの1900年間、神は沢山の嘆き、沢山の叫び、悲しみに応えておられない気がします。
神よ、私をお救いください。
詩篇69:1-3
水が喉にまで入って来ました。
私は深い泥沼に沈み
足がかりもありません。
私は大水の底に陥り
奔流が私を押し流しています。
私は叫んで疲れ果て
喉は乾き
目も衰え果てました。
イエスご自身もこう祈られています。
みこころが天で行われるように
マタイ6:10
地でもおこなわれますように。
これは、みこころがこの地では行われていない、ということです。
この祈りは、地上にある悪が、完全に敗北するまでは、完全には答えられることのない祈りなのです。イエスご自身でさえも、死から逃れる事は出来ませんでした。
叫んでも叫んでも、主が奇跡を起こして介入して下さることは稀です。神様は事を起こされるのではなく、歴史が進むままに任せられました。
いかにも「神様然」として来られることはありませんでした。
人間に何かやらせるとまたとんでもないことになるから、人間の自由をちょっと抑えよう、というやり方は選ばれませんでした。
むしろ、悪のただ中にいて、苦しむ、人のそばに来られた。
人間の歴史に、神が、登場人物の一人として入って来られたのです。
共にいるーインマヌエルー
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
ヨハネ1:14
苦しみに会ったとき、悲しいときに、言葉だけでは不十分だ、ということはありませんか?
私たちは一人で苦しむのではなく、隣にいるイエス様も、一緒に苦しみも悲しみも体験してくださいます。
イエスが人となって地上に来られ、苦しみを受けて死なれ、死者のうちから生き返られたという事実は、私たちの人生から痛みを消すわけではありません。
常に慰められるとも限りません。
なぜ、という問いに答えられる、神学的な説明はありません。
でも、必ず神は苦しむ人のそばにおられます。
預言者イザヤが、イザヤ書7章14節で「インマヌエル預言」というのをします。いつかイエスが来られるという預言です。
インマヌエルとは、神は私たちとともにおられるという意味です。
共におられることの、実践
それを実践したのが、例えば、日本の復興支援のために来てくれた、フィリピン、ドイツ、シンガポール、アメリカからのチームでHabitat for HumanityやSamaritan’s Purseというプロテスタント系のクリスチャン団体です。
彼らは震災直後から来て、1年後もボランティアを送り続けていました。
あるクリスチャングループは「宣教」が至上命令と考えて、被災者の気持ちを考えない一方的な伝道をして、仮設に出入り禁止されたそうです。
一方で、黙々と奉仕したクリスチャンボランティアもいた。そのうち、「教会さん、よくやってくれるね」との声が聞かれるようになったそうです。
他のボランティアがいなくなっても続けて来てくれる。それが信頼に繋がったのです。
サマリタンズパースのボランティアの建築作業員たちが、日本の人を改宗させようと、伝道することはありませんでした。
皆、イエスの体を作る一人として働いて、建て直した家の鍵を持ち主に返す時に、その家の祝福の為に祈りをささげさせてもらったそうですが、1度も断られたことがないそうです。
彼らの中にイエスがいます。
言葉だけでは不十分だ、と思うとき、私たちはイエスを信じる人たちを通して、一人ではないことを感じるのだと思います。
苦しみや悲しみに会った人に、イエスは哲学や、神学を持ち出しませんでした。
いつでも、癒しと憐れみの手を差し伸べたのです。
あの日神は
苦しむ私たちと一緒に苦しみ、嘆き、怒り、そして悲しんでおられました。
この地上の今の状態は、決して神が最初に望まれたものではありません。
神は苦しむ人のそばに絶対におられます。これは聖書の中の、イエスについて書かれた多くの部分に証しされているので、必ずそうだと言えます。
苦しいことも悲しいことも、地上に生きていればまだあるでしょう。
理不尽なことも、神がまだ応えられないと感じることもあると思います。
ですが、私たちは絶対に一人ではない。一人で苦しむのではないのです。
インマヌエル、共におられる神は、いつも一緒にいて下さいます。
※より詳しい音声と動画はこちらより。パスワードは webcha です。
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