12月5日:心を痛める神

メッセージ

天地万物を創られた神は、この世界をどのようにご覧になっておられるのでしょうか?神様は再び人類の歴史に介入されようとしておられるのでしょうか?
その時は近いのでしょうか?
なぜ、そうわかるのでしょうか?  
共に学べる機会もなくなる前に、ご一緒に聖書を開いてみましょう。

人を愛しておられる神

イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

マルコ2:17

イエス・キリストは誰のために来て下さったのでしょうか?
勿論正しく、良い人のためにも来て下さっています。
でも、私はダメ人間なんだ、生きる価値さえないと思っている人のためにも、いやむしろそういう人のためにこそ、来て下さったのです。

そして、私たちを更生しようとか、良い人間に作り替えようと思っておられるのではありません。聖書にあるように私たちは病人です。
病んでいるということは、元々は健康だったのです。病気のために、正常な判断ができない状況かもしれません。
私たちは元々良いものだったのに、今”死という病”に罹っているのです。死という病から回復される、ということを聖書は言っています。

私の目には、あなたは効果で尊い

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

イザヤ43:4

死という病には、自分の弱さ、頑固さなどの罪が症状として出てきます。そういうものが、自分自身を閉じ込めていないでしょうか?
死のとげが罪なのです。

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

Ⅰコリント15:56

最初に罪が人間に入ったのは、創世記、”あの這うもの”がエバを欺いた時からです。

しかし、(あの這うものが悪巧みによってエバを欺いたように、

Ⅱコリント11:3

エバもアダムも神様の前では光り輝くダイヤモンドのような存在でした。
なのに石ころのようになってしまったのです。ですが神は変わらず愛して下さっています。

罪とは

罪とは、神の的から外れることです。
私たちが天と地の作り主である神の心から外れてしまった!神の心のど真ん中から外れてしまった時、それを『罪』というのです。

神の価値観に生きる

私は何者でしょう?
野にある花よりも着飾っています。空の鳥よりも、気に掛けられています。
私たちは神様にとってダイヤモンド以上の存在なのですが、それに自ら気付けていないのです。

かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人立ち返ること悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

Ⅱペテロ3:9b

神の忍耐は私たちの限界を遥かに超えます。
神に立ち返ること、それが1番望まれていることです!(悔い改め、ではありません!!)

そしてヤハウェは仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

創世記6:7

残念に思う、というのは『深く息をはかれた』ということです。溜息でしょうか?
これには恐らく水棲・海生生物は含まれません。大水でも彼らは死にませんから。

神の悲しみ・心の痛み

それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

創世記6:6

これは人間であっても言ってはならないs最悪の一言ではないでしょうか?!
自由意志を与えた人間が、どう行動するかは神はご存じだったはずです。この部分は、人類を想像された創造主の心の痛みを語っている所です。
そう言わざるを得ないほど、ヤハウェの心は傷ついていました。
呼吸が乱れるほどに、深く長い溜息をつかれたのです。

ヤハウェの本質は愛

 のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

Ⅰヨハネ4:8

愛がなければ、ということは、愛があれば神のことが分かるはずですよと、聖書は言っています。

キリストも一度罪のために苦しまれました。死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては殺され死に渡され、霊においては生かされたまま私たちを神のみもとに導くためでした。

Ⅰペテロ3:18(私訳)

※YOUTUBEからご覧になる場合は、こちらのリンクより。

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