7月4日:放蕩息子より‐愛を求めてどこへ行くのか-

メッセージ
愛を求めて私たちはどこまで旅を続けるのでしょうか?

放蕩息子のたとえ話

ある人の二人の息子のうち、弟息子の方が「お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい」ととんでもない要求をします。
そこで父親は財産を二人に分けてやるんですが、それを持って弟は家を出て、遠い国へ旅立ってしまいました。

そして放蕩して財産を湯水のように使ってしまった後、食べることにも困り果てるようになって、我に返った弟息子は意を決して、帰ろうと思い立ちます。
彼は、自分はあの父の息子だ、ということはかろうじて忘れていなかったのです。
また、何とかお父さんを説得して、また家に置いて貰って、どうにか命だけは助かろうとしたのでしょう。

帰りついたら絶対にこう言おう!こう言って許してもらおう、とプランを練ります。それは、
「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい」
この言葉です。

ですが家にさしかかると、まだ家からは遠かったにもかかわらず、父親は弟息子を見つけ、駆け寄って抱きしめ、息子が準備したあのセリフを全部言う前に、しもべたちに言いつけて、一番良い衣を着せ、指輪をはめてやり、履物を履かせ、肥えた子牛を屠って祝おうと言うのです。

その時兄の方は畑にいて、帰ると家で祝宴が開かれています。
面白くない彼は怒って家に入ろうともしません。そこで父が出て来て兄をなだめます。
弟、兄、それぞれに自分を重ねて読むことの多いこの箇所ですけれども、このお父さんが象徴しているのは、創造主なる神です。

弟息子の、とんでもない要求

お兄さんの怒りは尤もです。
ルカは淡々と書いているので、この要求が如何にとんでもない話なのか、ちょっと伝わり難いのです。

中東の人の考えや文化を研究して、聖書解釈に役立てたケネス・ベイリーという人が『ヤコブと放蕩息子』という本の中で書いているのですが、彼は15年以上、モロッコからインド、トルコからスーダンに掛けてあらゆる階層の人に尋ねて回ったそうです。

何を尋ねたか、それは、『父親がまだ生きている内に、息子が遺産相続を求めることの意味』です。
答えは一様に「それは絶対に無理」でした。
何故でしょうか?それは、この要求が意味するところが「父に死んでほしいと願う」事だからです。

読んで感じるよりも、はるかに無礼な行為です。

遠い国へ旅立った弟息子

この遠い国は、今まで故郷で聖なるものとみなされて来た全て、(生き方、考え方、行動、家族、共同体)無視する世界へ行く、というかなり挑発的な反抗、霊的な意味での「家出」を意味しています。

私たちが受けている愛、聞いている声とは

ここで、私たちが本来受けている愛、聞いている声をもう1度思い出してみたいと思います。

『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。』

マタイ3:17

イエスがバプテスマを受けられた時に、天が開けて、この声がありました。
アダムにも同じ声が注がれたと思いますし、神の子たち、つまり私たちにもこの言葉は永遠に語られています。
イエスと同じ「愛」なのです。

またわたしが、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

ヨハネ17:22-23

イエスが御父に愛されているように、私たちも同じように愛されています。ですが、真の愛の声というのはとても穏やかで、優しくて、静かなんですね。

真の愛の声とは

エリヤがホレブという山で神にあった時、どんな状況だったかを読んでみてください。(Ⅰ列王記19:11-13)
まず、大風がエリヤの前を通り過ぎました。山々を裂き、岩を砕くんですがそこに主はおられません。
風の後地震が起こりましたが、その中にもおられませんでした。
地震の後にはがありましたが、その中にもおられません。火の後にあった声は、こう書いてあります。

かすかな細い声

エリヤはこれを聞くとすぐに外套で顔を覆って外に出て行きました。
主が語られていると分かったからです。主の声は、それが自分に届くことを受け入れる人のみが、聞くことのできる声です。

別の大きな声

イエスは『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。』と天のお父さんに言われたすぐ後に、荒野に導かれて、他の大きな声を聞きました。
私たちも生まれた時から聞いてきた声です。

あなたにどんな価値があるのか、証明せよ」という声です。

「あなたは◎君よりずっといい子だね」
「成績はどうなってる?ちゃんと卒業できるの?」
「あんな人たちと友達で良いの?」
「次のテストで何点取れるの?あとどれ位で達成できるの?」
「あなたは◎さんよりも、ずっといいものを持っている」
等々・・・。

私たちはこういった大きな声を聞き続けていると、主の声を忘れてしまい、自分の存在価値を疑い始めます。
他人の成功をねたんだり、不安になったり、復讐してやろうと思ったり、ライバル意識などに支配されるのです。それは、私たちが家出をして、遠い国に向かっているという証拠でもあります。

この世の『愛』は条件付き

この世の愛はすべて、「もし~なら」という条件付きですから、私の価値、私が誰かを決めるのはこの世界だ、という、不安でいっぱいの旅を始めてしまうことになります。

愛を求めてどこへ行くのか?

あなたは私を愛していますか?本当に愛していますか?」と問い続けることは、自分自身をこの世に縛り付けることです。
そして、自分を守る作戦を練るのです。
弟息子が「もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい」というセリフを必死に考えたように、自分に必要な愛自分が受けて当然と思える愛を、確保しようするのです。

無条件の愛を、私たちはなぜそれがある場所を無視して別の所に求めようとするんでしょうか?
お父さんに頂いた沢山の賜物を遠い国へ持ち出しては、神の栄光の為には使わず、色々な所で利用して放蕩するのでしょうか?

子供としての姿勢をイエスに倣おう

神の愛を完全に受け取られているイエスの姿を見てみましょう。愛されている子供としての、私たちのあるべき姿はイエスを見ると分かります。
イエスはこう言われています。

「まことに、あながたがに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。

マタイ18:3

これは何も、子供のままでいなさいと言っているのではありません。意識的に選択して、子供の純真さに近づく、ということです。
帰るべき家にたどり着いて、主が「よく帰って来たね」と走って来て抱きしめて下さった時、その無条件の愛を感じて、はっきりと神の姿を仰ぎ見るという喜びを望むかどうか、ということです。

自己評価が低いことは、美徳でも何でもありません。

真の罪は、私たちに対する神の始めの愛を否定することではありませんか?自分自身の善さを無視する事ではありませんか?
これを無視すると、父の家にだけ見つかるものを、全然違う人たち、全然違う場所に探しに行く、自滅的な旅に出ることになってしまうのです。

神の視線で見る

このたとえ話のお父さんは、あまりにもこの兄と弟を愛しているので、祝宴を遅らせることなんて思いもよりませんでした。
お父さんは兄より弟が好きだったわけではないのです。むしろこのお父さんは、自分の喜びにお兄さんにも加わって欲しいと願っています。

私たちの父であり、母である主は絶対に比較されません。私たち神を選んだのではなく、神私たちを選んで下さったのですから。

 見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。

イザヤ49:16

あなたを見出したい!!

この放蕩息子の話は、ルカ15章にある3つのたとえ話の最後です。
どの話しも、神が私たちを見出したい!と願われていることを、強調しています。

最初のたとえ話で神は、100匹の羊のうちたった1匹の無くした羊を見つけて、友人や近所の人たちに「一緒に喜んでください」と言うのです。
次のたとえ話では、神はたった1枚の銀貨を無くされたら、明かりをつけて、家じゅうを掃いて注意深く探します。見つかったら近所の人を呼び集めて、「一緒に喜んでください」と言うのです。
神は子供の帰宅をじっと待って、迎えに駆け出し、抱きしめ、帰ってきたことを「喜び祝おう」と言われます。

すべて、父であり母である創造主のたとえです。

神は、いなくなった、たった一人のあなたが、神の家に帰ってきたことを喜ばれます。
自分の愛する子が、この世のあらゆる破滅の中から一人、我が家に向かって歩いて来るのを見たので、喜んでおられるのです。

他の場所で見つけようとしているすべての物は、神の家で見つかります。
私は帰って来ても喜んでもらうほどの者ではない、と自分に言い聞かせることを止めてください。
神はあなたを探し出すためなら何処にでも行かれるんです。休むことはされません。
そんな価値は自分にはないと思わないでください

父の家へ帰りましょう

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

ヨハネ15:9-11

無条件で愛してくださる父の家に帰りましょう。
お父さんは自分の子を雇われ人にはされません。必ず父の子として、名誉ある着物を着させ、相続の指輪をはめ、栄誉ある履き物を履かせてくださいます。

神は愛ゆえに、決して無理強いはされません。もし子供が遠く離れていても、心を痛めながら毎日、いつ帰って来るかと遠くを眺めておられます。
条件はありません、いつでも神の家へ帰りましょう。

※より詳しい音声と動画はこちらより。パスワードは webcha です。

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