「神からのものか試しなさい」「霊だからといって、みな信じてはいけません」と聖書にありますが、霊を試す、とはどういうことでしょうか?
今の時代にも偽教師、自称預言者が多くいますし、イエスのご人格を引き下げようとする全ての働きの背後には、悪霊がいると分かります。
主イエスの御霊を受けた人と、そうでない人との見分け方。そして、「さばいてはいけない」という御言葉の誤解を解いていきます。
正しくない霊
愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。
Ⅰヨハネ 4:1
この御言葉から、偽の預言をする人の背後には霊がいると分かります。預言だけでなく、正しく教えることも、また同じです。
使徒の働き15章でも、エルサレム会議が開かれたのは、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」という、パウロが宣べ伝えた福音とは違う事を伝える人たちが出て来たことが原因でした。『ガラテヤ人への手紙』にこれは、詳しく書いてあります。
よってこの御言葉は、当時の使徒や預言者だけでなく、現代の教える人、メッセンジャー、預言者を自認するすべての人に当てはまります。
霊について試すという事は、私たちが本当に真理の御霊を持った人と交わっているかどうかを検証するうえで、とても大事なことではないでしょうか。
御霊を受けた人とは、どういう人か
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとして いることをあなたがたに示すからです。
ヨハネ16:13
新生して、本当にイエスの十字架を信頼した時に聖霊を受けた人は、神の子となって、真理である御霊を受けています。
聖霊というのは、イエス・キリストの御霊です。
この御霊を持つ人はキリストに属しています。
「すべての真理」に導いて下さる真理の御霊を持っているのです。つまり、私たちクリスチャンのことですね。
自称クリスチャンとは
けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
ローマ 8:9
イエス・キリストが道であり、真理であり、いのちなのです(ヨハネ 14:6)。
自分はクリスチャンだと言いながら、偽りの人生を続ける人は、真理の御霊によって歩んでいないことは明らかです。
その人たちには、何の霊が臨んだんでしょうか?!イエス・キリストの霊でないのなら、偽りの霊、間違った霊だった事は明らかです。
その為神を、兄弟姉妹を、自分自身を、欺くことになってしまいました。
間違ったクリスチャンの試し方
私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。
Ⅰヨハネ 4:6
もし、クリスチャンなのに真理に耳を傾けない、あるいは真理に関心を持たない人がいたなら、あなたはすでに、その人を試しています。
その人は間違った霊を持っていると証明されてしまったのです。
私たちはその人が悔い改めるように、つまり神の方へ向き直るように祈りつつ(マタイ 5:44)、戒めたり(テトス 3:10)、厳しく戒めたりする(テトス 1:13、テモテ 2:25)ように命じられています。
「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」とイエスが言われている通りです。
でも私たちが正確に、霊を見分けることなんて出来るんでしょうか?
見分ける知恵はどこから?
ここ(ベレヤ)のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
使徒 17:11()内JBE
使徒の働き17章の、ベレヤのユダヤ人のように、聖書を良く読むことです。いつでも見分けないといけません。
さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。
Ⅰコリント 4:6
パウロでさえ、自分の教えを聞いている人に、自分が御言葉に反したことを教えていないか試すように勧めています。更に、教える者は「書かれていることを超える」べきではないと言っています。
なぜ教えを聖書に照らして試す必要があるのか
私たちは健全な教えにとどまって、信仰を守り、預言者と使徒、イエス・キリストの教えに従うように命じられているからです。
私たちは既にモーセの律法の下にはいないのですが、イエス・キリストの律法の下にいます。以下のような愛の律法です。
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
マタイ 22:37~40
律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。
ガラテヤ 5:14
「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。
へブル 10:16
多くの偽預言者が世にいるので、私たちはあらゆる霊を試すようにと、主から警告されています。
どのようにして・・・それは彼らの教え、預言している内容と、御言葉とを比較すること、また、御霊の実を結んで生活しているかどうかを試すのです。
そして全てのことを適切に試すためには、まず私たちがキリストに倣う者でなければなりません。
私たちがあるべき態度
この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、 何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
ローマ 12:2
あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。あなたがたが不適格な者なら別ですが。
Ⅱコリント 13:5
自分自身の言葉と行いを試します。
イエスへの信頼、十字架への信頼、健全な教えにとどまっているかを、日々確認しましょう。
裁くことに対する誤解
良い機会なので、ここで「裁いてはいけない」という聖句に関して、誤解を解いておきたいと思います。多くの真面目なクリスチャンが、この言葉に苦しめられてきたかと思います。
さばいてはいけません。さばかれないためです。
マタイ7:1-2
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。
ヤコブ4:11
教会内で明らかに良くない事件が起こっていても、この聖句を以て「あなたは人を裁くのですか!?愛のない人ですね」と牧師やリーダーに言われて、黙るしかなかったという事を聞いたことがあります。
ギリシャ語から見る『さばく』
裁く、という言葉はギリシャ語でクリノです。
アナ+クリノ=見分ける
聖書的かどうか、神に頂いた知恵を実際に使って見分けること。アナクリノすることを私たちは命じられています。
「それは聖書的ではありません」「間違っています」「それは神から出たものではない」と言う人は、知恵を実際に用いているんですね。
ディア+クリノ=裁決を下す、仲裁する
私たちは「ディアクリノ」することを神から許されているのではなく、「ディアクリノ」するように命じられています。
人だけではなく、預言や、預言者、教えられたことも、さばく、つまり吟味するように命令されているのです。
『預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味(ディアクリノ)し なさい。
Ⅰコリント14:29
外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その 悪い人をあなたがたの中から除きなさい。
Ⅰコリント 5:12~13
このように、教会内部の者たちをさばくように言われています。
色々な偽預言者、教師たち
過去には色々な預言がありました。
今はChurch of Jesus Christ、日本だと『末日聖徒イエス・キリスト教会』と名乗っているカルトで、モルモン教の創始者ジョセフ・スミス・ジュニアやエホバの証人、Jehova’s Whitnessの創始者チャールズ・テイズ・ラッセルたちは偽預言者です。彼らは起こりもしないことを言って多くの人を騙しましたし、現代でも多くの方が騙され、救いから遠のいています。
2005年に97歳で亡くなりましたが、カトリックのシスター、ルシア(Lucia)は偽預言者です。
今、ポルトガルのファティマは世界有数のカトリック巡礼地になっていますが、それは1917年5月13日の日曜日、フランシスコ、ジャシンタ、ルシアが羊の番をしているときに『聖母』が現れたからだそうです。
フランス、ルルドの聖母出現も有名です。
マリアが告げたところを掘ると泉が湧きでて、その水には奇跡的な治癒力があると信じられています。ここには世界中から年間600万人もの巡礼者が集まる、カトリックの一大巡礼地です。
他にも以下のような出現が少なくとも何千件もあり、バチカンの調査が追いつかないような状態です。
私などが裁いても良いのだろうか?!
こういう偽預言たちに対して、私なんかがそのように言う権利はあるのだろうかと戸惑われるかもしれませんが、これは「さばく権利がある」のではなく、 私たちには言わなければならない責任があるのです。
これは私のさばきではありません。
この人たちについて、神が言われていることなのです。
さばくことが受け入れられないのではありません。むしろ、裁きに失敗することが、受け入れられないのです。
パウロが真っ向から抗議したのは、まがりなりとも使徒のペテロです。それでも、彼が間違った行動をとることによって、バルナバさえも引きずられてしまいました。
私たちは誰かが教えたり、預言していることをさばくべきなのです。
裁くという言葉に語弊があるとすれば、”吟味する”という言い方でも良いと思います。
私は賢い人たちに話すように話します。ですから私の言うことを判断してください。
Ⅰコリント 10:15
パウロですら自分の話を聞いている人たちに、自分が語っていることをさばくように言いました。
裁くというのは”判断”という意味でもあります。
裁くことについては、現代のクリスチャンの殆どがマタイの福音書7:1から間違って解釈をしてしまっています。
私たちに許されていない”裁き”、”判断”
”誰が救われるかどうか、天国へ行くかどうか”を裁くことは、私たちに許されていることではありません。この判断は、クリシスという言葉で書かれていて、私たちが絶対にしてはいけない判断です。
御霊の実を持っていない人
しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉の行いは 明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。 こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や 欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
ガラテヤ 5:18~25
御霊を持っていない人は、真理に対する愛を持っていません。
聖書的ではない、それは間違っているという指摘を拒む人は、自分を欺いているか、別の霊に影響されています。
1度でも間違った預言をしたことのある人は、偽預言者です。
御霊に酔いなさい!という人は、酩酊という罪を犯しています。
集会全体が常に興奮状態、熱狂状態!ライブ会場のようならば、平安や自制という実はありません。
もし他人と自分を比べて自惚れるような人がいたら、その人は柔和という実を持っていないのです。
イエス・キリストの霊を受けた、私たちのするべきこと
「私は聖書の一言一句を信じる」、と言う教会のリーダーや、メッセージを取り扱うような人が、なぜ真理を聞くことを拒絶するのか、徐々に間違ったことを勧めるようになるのか、分かりません。
分かりませんが、聖書にはそれが救われた人たちから出ると書いてあります。
そして今日、不品行に対して断固とした態度を取る人に向かって、”うわべだけの現代の教会・クリスチャンたち”は、「人を裁くなんて、あなたは高慢ですね」と言うんですね。
それに対して神は、正しくないことを許す者が高慢だと言われるのです。
イエス・キリストの霊を受けている人は、真実を受け入れます。
真実を語って、真実のために戦い、証言します。そして私たちは、新生した、イエス・キリストに信頼した者として、霊を試すように命じられています。
※音声と動画はこちらより。パスワードは webcha です。
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