ルカの卓越した記述能力で記録された『使徒の働き』は、現代の考古学的な発見によってその真実性が裏付けされています。
物凄い精度で正確です。
ルカの文書は時の試練に耐え、私たちクリスチャンの基礎に信頼性を与えています。
地図、年号対照表を見ながら主にパウロの足跡を追う事になりますが、この書全体を俯瞰して捉えてみます。そして、パウロたちと一緒に伝道旅行をしている気分を味わえたらと思います。
イエスの時代から、初期教会へいたる背景
皇帝アウグスト(BC31-AD14)は聖書に言及されていローマ皇帝(ルカ2:1)で、ローマ帝国初の皇帝でもあります。
世界史で必ず習うので、覚えていらっしゃる方もおられると思いますが、帝国中にパックス・ロマーナ(パックス・アウグスタナ)と呼ばれる平和の時代を作り出しました。
「使徒の働き」の始まるちょっと前の皇帝です。
皇帝は「主および神」とか「主および救い主」として礼拝されていました。
この時代の特徴は、安定した政府、経済繁栄、発達した情報伝達手段。
そのどれも、1世紀における福音の広まりに重要な意味を持っていました。
パウロが「ローマ人への手紙13章」で、”人はみな、上に立つ権威に従うべきです。”という記述をしたのは、この安定した時代でした。
”権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。”なんて、皇帝ネロが、彼の治世の5年以降、虐殺、毒殺、迫害を始めるとなかなか素直に読めなくなるところですね。
ローマ社会と宗教の関係
この時代、ローマ世界の宗教というのは社会と密接に織り合わさっていて、治安の一部でした。都市ごとにそこの神々があって、礼拝することは、もはや郷土愛、誇りの問題だったのです。日本の氏神みたいな感じでしょうか。
ちなみに、なぜ「この道の者」、クリスチャンたちが迫害されたかというと、彼らがイエスについて主張していた内容がマズかったからではないのです。
かつてない大帝国になったローマを体現する、皇帝を礼拝することは、一種の愛国的義務だったのです。
しかし”この道”の者、クリスチャンたちは「イエスのみが主、および救い主」という排他的な主張をしていました。これが大問題。
皇帝崇拝が帝国を1つにまとめる強力な接着剤だった時代、複数の神を崇拝することは許されても、皇帝を礼拝しないことは許されなかったのです。
こういったローマ文化の幾つかの面が、「使徒の働き」と関連しています。
パウロが巡った大都市
使徒の働きは、パレスチナ全土、北方のアンテオケへ福音が広がって、そこから西方の小アジヤ、ギリシャを経て、ローマに至る・・・という、ローマ帝国の背骨を構成していた地域へ、福音が普及していく物語を、特に語っています。
また、沢山の大都市が出てきます。
ローマ帝国は、帝国中に植民地を作ってそのほとんどに退役軍人を定住させていました。こういった植民地は1番の特権を与えられていて、税金を一部、あるいは全額免除される場合もありました。
コリント、ピリピ、アレキサンドリアのトロアス、ピシデヤのアンテオケ、イコニオム、ルステラなどがそうです。
その他、シリヤのアンテオケ、エペソ、スミルナ、パウロの出身地タルソなど、自分たちの法律を基礎として内政問題を治めていけるという意味で、自由がありました。
ローマの市民権
パウロが良く助けられている印象のあるローマの市民権ですが、新約聖書の時代までに、ローマの市民権というのは他の場所で生まれて暮らしていても、多分ローマに1度も足を踏み入れたことがなくても、自分の都市、または州の市民権に加えて、ローマの市民権を得ることが可能になっていました。
ローマ帝国は、二重の市民権という概念を開拓したのです。
日本はいまだに二重国籍も無理だというのに、羨ましいです。パウロはローマ市民であると同時に、生まれ故郷、タルソの市民なのです。
生まれながらの(使徒22:26-27)というのは、両親、または一家が市民権を得ているという意味です。ローマ帝国への特別な奉仕とか、父か祖父がローマの軍隊に勤めていたとか、そういうことによったと思います。
賄賂を送って市民候補のリストに名前を載せて貰うことも出来ます。エルサレムでパウロを救った千人隊長クラウデオ・ルシヤはそうやって市民権を得ていました。
投票権とか、むち打ちなどの屈辱的な刑の免除とか、ローマにいる皇帝に上訴するとか、そういう権利がありました。
地図と年表に見る「使徒の働き」①サウロの回心からアラビヤ~タルソ
AD28頃、バプテスマのヨハネが活動していました。イエスも活動されました。
そして十字架による罪の贖い、ご復活、弟子たちの間に現れてから、昇天されました。日本はAD400位からようやく古墳時代に入りますので、まだまだ記録のない時代でした。
まだサウロと名乗っていたころのパウロは、AD33-35頃に天からの光、更に啓示を受けて回心します。
ダマスコで見えなくなった目を癒されたサウロは、そこで力強くイエスこそが主であることを伝道し始めるので迫害され、籠に入れられて壁から吊り降ろされる、という方法で町を脱出します。
アラビヤでも迫害に遭ったサウロは、故郷タルソへ戻りそこで10年間を過ごします。
恐らくパウロのことです、他の書にある迫害の内容を見ますと、ここでも精力的に伝道していたのではないでしょうか。
パウロ、バルナバ、マルコ、第一次伝道旅行へ
タルソよりバルナバに連れ戻されたパウロは、異邦人への使徒という使命を帯びて、ガラテヤ地方へ伝道旅行に出ます。何度かエルサレムに足を運び、使徒たちとも交流するパウロですが、彼の拠点はエルサレムというより、アンテオケの集会にあったようです。
ルステラでは神としてあがめられた後、アンテオケとイコニウムから来たユダヤ人から石打に遭います。
しかしデルベでは多くの信じる者が起こされ、同じ道を帰りながら長老を任命していきます。徐々に、信じる者たちの群れが形成されていく様子が見てとれます。
年表と地図に見る『使徒の働き』②エルサレム会議、そしてシラスと共に第二次伝道旅行へ
AD48頃、エルサレムでは異邦人クリスチャンについて混乱が起きていました。そこで、会議が開かれます。(15:1-29)
エルサレム会議の前、アンテオケで「ガラテヤ人への手紙」を執筆しました。
さあ伝道旅行へ。
しかし最初の伝道旅行で途中棄権してしまったマルコを連れて行く気になれなかったパウロは、バルナバと激しく論争になります。結局マルコの親戚であったバルナバは2人でキプロスの方へ向かいます。
マルコとはその後和解しましたが(コロサイ4:10、Ⅱテモテ4:11、ピレモン24節)、バルナバとパウロはその後、二度と一緒に旅をすることはありませんでした。
パウロはシラスを伴い、伝道旅行中で最も距離の長い旅をスタートさせます。
ムシヤ(アエザニの斜め右)に面したところでビテニヤに渡る事を許されず、トロアスに向かいました(16:6)
コリントで、テサロニケ人への手紙Ⅰを書きました。
若い教会宛に、キリストの再臨について説いたのですが、迫害が酷かったので、「キリストはすぐに来る!」という誤解がありました。そこで、最初の手紙からの誤解を正す目的で、その数か月後に、第二テサロニケを執筆しました。
コリントで出会ったアクラとプリスキラは、エペソに留まりました。(18:24-28)。もう1度来る、と約束したパウロはカイザリヤに向けて旅を続け、エルサレムを目指します。
年表と地図に見る『使徒の働き』③エペソ、コリントへ至る第三次伝道旅行
AD51に2回目のエルサレム訪問をします。
そして割とすぐに第3次伝道旅行に旅立つのですが、AD54にネロが皇帝に即位します。治世最初の5年は平和でした。
ローマ13章は、この時期に書かれたのです。
今回はエペソに2年間留まって、じっくり奉仕しています。その間コリント人への手紙第一を執筆しました。コリントを短く訪問もしています。
銀細工師の暴動があった後パウロたちはエペソを離れて、トロアスへ行きます。
そして、テトスに会えないことを心配して、マケドニアに渡ります。ここでコリント人への手紙第二を執筆しました。
さて、コリントからエルサレムへ帰ろうとしたパウロは、当初直接海路で帰ろうと思っていました。パウロは船旅にかなり慣れています。
しかし、陰謀を知ったのです。(20:3)
大きく回り道をした、エルサレムへの帰路
そこで計画を変えて陸路を行き、種なしパンの祝いが過ぎてから、ピリピより舟に乗ってトロアスへ行きます。
推定される日付は4月7日~15日頃です。
ミレトではエペソから来た長老たちと会っています。もう会うことはありません、というパウロに、皆が泣いて見送るシーンがあります。
カイザリヤでピリポに会ってから、五旬節に間に合わせようとしてエルサレムに向かいます。途中で古くからの回心者、キプロス人マナソンの家に一晩泊まったりしています。
エルサレムでも、パウロの殺害計画がありました。
預言の通り、エルサレムで拘束されるパウロ。
エルサレムで、祭りの七日目にアジアからやってきたユダヤ人たちが、群衆を扇動したので、ローマ兵は暴動を恐れてパウロを逮捕しました。預言者が言った通りになったのです。
そして結局カイザリヤで2年間、牢に入れられます。
総督がフェストに交代したのでパウロは皇帝に上告を申し立てて、ローマへ行くことになります。
カイザリヤからエルサレムは100キロ無いくらいですので、パウロが牢にいる間、ルカはエルサレムへ行って直接イエスの母マリア、エルサレム教会の監督をしていたイエスの弟ヤコブなどから復活の事実、イエスの活動について詳しく聞いたと思います。
ルカの福音書は、この時期に執筆されています。
そしてパウロの最後のローマへの旅は、船旅の中では多分最も有名なのではないかと思います。
冬に航行するという無謀なことをした結果、14日間も漂流することになりました。
遭難、難破、ローマへの最後の旅
この頃、エルサレムは右派である熱心党が力をつけていました。徐々に政治不安が増しつつあったのです。
その様な中、パウロやルカはローマの百人隊長らと共にカイザリヤを、アドラミテオ行の船に乗って出発しました。
キプロスの島陰を航行して、ミラでイタリヤ行のアレキサンドリヤの穀物運搬船に乗り換えます。
でも強風のためクニドに停泊できず、サルモネ沖のクレテの島陰を必死に航行します。ここまでも、やっとのことで辿り着いたのです。
そして「良い港」という名前の港に入るのですが、既に晩秋でした。パウロは
「皆さん。私の見る所では、この航海は積み荷や船体だけでなく、私たちのいのちにも危害と大きな損失をもたらすでしょう」
と警告しましたが、百人隊長はパウロよりも船長や船主の言うことを信用し、冬を過ごすにはここよりも、もっと南西と北西に面しているクレタの港、フェニクスの方がいいということになってしまったのです。ほんの少しの移動のはずでした。
しかし結局、陸から吹き降ろす北東の風にあおられて流され始めます。
14日間漂流した挙句、マルタ島に漂着して船は大破しますが、パウロが御使いから聞いた通り、誰も死ぬことなく助かりました。
そしてここでもパウロは、沢山の病人を癒します。
マルタで3か月過ごした後、ローマ行のアレキサンドリヤの船で出帆します。
パウロの最期
シラクサを通ってレギオン、ポテオリ(数人のクリスチャンと過ごす)、アッピヤ街道沿いでも沢山のクリスチャンと会い、そしてローマへ、というところまでが、『使徒の働き』で書かれています。
ここからのパウロは使徒の働きには書かれていません。
他の書から見ると、パウロはAD62頃に一旦は牢から解放されます。
クレメンスの著書から見ると、東へも西へも伝道の旅行へ出たのではないかと推測されます。
AD64にローマの大火が起こり、それをきっかけにクリスチャンへの迫害が酷くなります。
パウロはそんな最中ローマへ帰り、最後にテモテへの手紙第二を獄中で執筆し、裁判の後に殉教したものと思われます。この時期に使徒ペテロも殉教しています。
この使徒の働きの記録者ルカは、パウロに最後まで寄り添って、支えていました。
まだサウロだった頃のパウロが、ダマスコへ行くことになった時、まさかそれが自分の人生において、長い長い旅路の始まりだとは思わなかったと思います。
1回目の伝道旅行は大体2000キロ。
2回目の伝道旅行は1番長くて、約3300キロ以上。
3回目も3000キロ以上ありました。最後のローマへの旅も3~4000キロです。
その全ての行程に於いて、主が導いて下さっていたことをパウロは知っていたと思います。
天からの光が自分にさした時、そして啓示を受けた時、それに応えない道もあったと使徒の26章でパウロは言っています。
でも、彼は応えました。
そして主の用意された道を見事に走り切りました。
私たちも、私たちに与えられている道を、しっかりと走り切ることが出来ますように。
※より詳しい音声と動画はこちらより。パスワードは webcha です。
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