「マタイ14章」は大事件や、奇蹟の詰まった章です。
バプテスマのヨハネの処刑シーンから始まり、他ではあまり見ない、病人の癒し以外の奇蹟が立て続けに行われます。
イエスは何を考えられて、これらの奇蹟をされたのでしょうか?
弟子たちに何を学んで欲しかったのでしょう?ご一緒に読み、現場にいた弟子と共に学びましょう!!」
マタイ14章とは
マタイの14章というのは、結構大きな事件、奇跡が合計すると3つ、ないし4つも詰まっている章です。
まず最初の大事件は、『バプテスマのヨハネの死』です。
この事件の後、1人で静かな所へ行かれようとしていたイエスに、大勢の人がついて来てしまいます。ここから『5000人の供食の奇蹟』に繋がって行きます。
男だけで5000人の人々を、お腹いっぱい食べさせたイエスは、群衆を解散させた後弟子だけを強いて舟へ乗せます。
そしてその後、『水上歩行の奇蹟』をされるのです。弟子たちはこの間、多くのことを学んだと思います。そして、最後に対岸に渡ったところで、『ゲネサレの人々への癒し』があります。
名もない多くの人たちが、イエスへの信頼を表すことによって、癒されたのです。
領主ヘロデ
聖書には何人も同じ「ヘロデ」という名前の人が出て来るので混乱しますが、このヘロデは、イエスが赤ん坊の時に迫害をして、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子をすべて殺させた、残酷なヘロデ大王ではありません。
ヘロデ・アンティパスといい、ヘロデ大王の息子です。
父親が死んだ後、ローマによって四分割された土地を、少なくともBC4年からAD39年まで、委任統治していたのです。
統治していた場所は、イエスが活動の拠点とされていたガリラヤおよび、バプテスマのヨハネが活動していたペレアという地方でした。
ちょうど、時期も場所も被っていたことになります。
この1節から2節を読むと、イエスの時代の人が、故郷の人も含めて、イエスのことを殆ど正しく理解出来なかった中で、ヘロデだけは、偶然かも知れませんが、うわさを聞いただけでバプテスマのヨハネとイエスを結びつけて理解していることが分かります。
そして、道を用意する人として活動し、死を迎えたヨハネは、イエスが受ける十字架の死も予見しているような、そんな感じがします。
5000人の供食の奇跡
人里離れたところまで、女性と子供を入れないでも5000人がイエスに着いて来てしまっていました。恐らく全員入れたら1万人近くの人がいたのではないでしょうか。
ちょっとそこで食べ物を買ってくるという訳にも行きません。彼らの食べる物をどうにかしないといけない。
最初は群衆を解散させようとしていた弟子たちですが、何とイエスがこう言われます。
しかし、イエスは言われた。「彼らが行く必要はありません。あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」
マタイ14:16
5000人以上の食事を弟子が用意することになります、ですが。あるのは5つのパンと2匹の魚のみです。弟子たちは本当に焦ったと思います。しかしこれは、イエスへの信頼を学ぶレッスンだったのです。
受けて、与える
たった5つのパンと2匹の魚、それをイエスは持ってこさせます。
お一人でも5000人に食べさせることはお出来になったでしょう。でも、イエスはここであえて、弟子たちを通しています。
弟子たちは、①イエスから必要を得ます。それを②受けて、③また与える、という学びをしています。
かごから出しても出しても湧いてくるパンと魚に、弟子たちは衝撃を受けたでしょう。しかし、実際は彼らはここでは、そこまで学ばなかったようなのです・・・。
それが、次の奇跡へと繋がって行きます。
イエスの水上歩行
この5000人の供食があってすぐに、イエスは群衆を解散させています。その理由はヨハネの6章を読むと分かるのですが、満腹になった群衆は、イエスをメシアに担ぎあげようとします。
勿論イエスはメシアですが、この時彼らは、自分たちの望むような、いつでも腹いっぱい食べさせてくれる、奇蹟を起こしてローマ帝国を滅ぼしてくれる、そういう、当時の時制にあったメシア像を、思い描いていたのです。
イエスは弟子たちだけ舟に乗せて、向こう岸へ行くように指示します。第3版には”強いられて”舟に乗せたとあります。
そして、ご自分は祈りのために一人、山に登られました。
弟子たちは向かい風に悩まされて、向こう岸に着けません。
25節に『夜明けが近づいたころ、』とあるので、弟子たちがほぼ一晩中湖の上で、波に揉まれていたことは確かです。
そこに、イエスが湖の上を歩いて来られるんですね。
気が動転した弟子たちはイエスを幽霊呼ばわりして、恐ろしさの余り取り乱して叫びます。
イエスがこの情けない弟子たちに掛けた言葉は、私たちも覚えておいて損はないと思います。
恐れと、信頼、というのは相容れません。
揺られる舟の上にいるような人生において、イエス様がこう呼びかけて下さっている声にいつも耳を澄ましていたいと思います。
私たちは恐れますが、その時にいつでも、すぐに、イエス様が伸ばして下さっている手、掛けて下さる言葉を思い出したいのです。
ペテロは何を見たか
ペテロは勇敢でした。イエスの言葉を聞くと、自分も水の上を歩いてあなたのところへ行かせてくださいと言います。
原文では、「もし、あなた(神)であるならば、『私に水の上を歩いてここまで来い』とお命じ下さい。きっと私は、水の上を歩いて、あなたの下に行けるでしょう」という信仰告白です。
イエスの「来なさい」という言葉に従って、ペテロは舟から一歩を踏み出します。
私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。
ピリピ4:13
まさにこの言葉のとおりです。
私たちはイエスに頼るとき、どんなことでも出来るようになります。しかし次にペテロは強風を見てしまいます。
そして怖くなって沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫びます。
わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
ヨハネ15:5
この言葉もまさに、このとおりです。
私たちはイエスに繋がっていなければ、何も出来ません。
舟で漕ぎださせたのは、①イエスに信頼すること、そして②天の御国というのはどういう所なのか、それを学ばせる為だったんではないでしょうか。
天の御国とは
天の御国というのは、恐れのない世界です。なぜなら主が共におられるからです。
ペテロの失敗は、イエスから目を離したことです。そして状況だけに捕らわれてしまったことです。
イエスは直ぐに手を伸ばしてペテロをつかんで下さいました。
イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」
マタイ14:31
イエスは怒っていなかったと思います。むしろ、ちょっと笑っていたかも知れません。分からないです。
でもペテロに、この事から学んで欲しいと思われていたと思います。もっと信頼してくれよ、と言いたかったでしょう。
もし信頼すること、信頼を働かせることを学んでいたら、ペテロも強風なんかに目もくれず、イエス様を一心に見つめて水の上を歩いて行けたと思います。
なぜ弟子たちは最初の奇蹟で学べなかったんでしょう?1万人に近い男、女、子どもが草原で食事をしている光景は、壮観だったと思います。
もしかしたら弟子たちは、自分たち用には何か食べる物を持って来ていたのかも知れませんね。自分に直接関係のないことだと、人間は関心が薄くなってしまうものです。
ゲネサレの人々の癒し
14章で最後の奇蹟。対岸のゲネサレに着くと人々が集まってきます。
彼らは必死です。
衣の房でもいいからさわらせて下さい!という信仰があります。
そして、実際に衣のすそをさわった人たちは、みな癒されたんです。
奇蹟を自分のものにするのは、彼らのように具体的な形で、信仰を働かせる必要があるのではないでしょうか。
「来なさい」というイエスのことばに従って、ペテロは舟から水の上へ一歩踏み出しました。
私たちの「舟」とはいったい何なんでしょうか。
その「舟から出る」とは、いったいどういうことなんでしょうか。
これまで多くのクリスチャンが、私もそうですが、ペテロのように何度も沈みかけたと思います。そしてその度に、主が差し伸べてくださった手を握りしめて、また浮き上がってくることができたのだと思います。
私たちはいつも状況を見てしまい、恐れます。
最後に出て来た、ゲネサレの、名もない病人たちは、彼らの信頼のゆえに皆が癒されました。
彼らのように、一心にイエスだけを見つめる信仰、イエスへの揺るぎない信頼を、いつでも持つことが出来ますように。
※より詳しい音声と動画はこちらより。パスワードは webcha です。
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