私たちが信頼する神は、祝福に満ちた唯一の主権者です。私たちを大いに祝福してくださいます。
祝福とは、神が自らの恵み(恩寵)を授けることです。
ところが今日、神が与えてくださる祝福と異なるニセモノが多くの教会を汚染しています。
実質的に有害な「繁栄の神学」。
一見、魅力的で多くの人たちが飛びつきますが、見事に騙されています。「繁栄」は言葉の上では、「祝福」と似ていていますが、その神学は詐欺です!
神からの本物の祝福をいただきましょう。
繁栄の神学詐欺①神と富、二人の主人
あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。
マタイ6:21
だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。
マタイ6:24
神と富、2人の主人に仕えることは出来ないと聖書には書いてあります。
欲望が神となってしまった人の最後は、ピリピ3:19に記してあります。
彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
ピリピ3:19
繁栄の神学詐欺②聖書の悪用
聖書の悪用をしている教会、伝道師が今日多くみられます。
沢山献金するなら繁栄する、と言っては自分の教団に献金を強制します。そして私腹を肥やすのです。
彼らが悪用している聖句がこれです。
十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。―万軍の主は仰せられる―わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。
マラキ3:10
これは新約聖書以降、福音の時代に生きる私たちに、そのまま当てはまるわけではありません。
旧約時代、神に捧げられた十分の一は、天幕で奉仕をするレビ人の生活費として使われました。当時はお金ではなく、産物そのものを捧げていたのです。レビ人ももちろん、その中から十分の一を主にお返しする義務がありました。
イスラエルの民への徴税、イスラエルの民による感謝の表明、レビ人への給料という側面があった十一献金です。
Ⅱサムエル8章、Ⅱ歴代誌31章、ネヘミヤ10章などに十分の一という言葉が見られますが、それを現代のクリスチャンに”献金”として当てはめるには根拠が薄弱だと言わざるを得ないのです。
繁栄の神学詐欺③耳触りの良い言葉
神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。
Ⅱテモテ4:1~2
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
パウロは若い指導者であったテモテに、こう教えています。何故でしょうか?それは、
というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
Ⅱテモテ4:3~4
真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
この様に、『耳触りの良い言葉をならべる』人が沢山出てくるからです。真理から目を背けた状態、健全な教えから目を背けた教えは口には甘いものです。
多くの人が甘い言葉につられて集まって来るでしょう。しかし、それは本物ではありません。
繁栄の神学詐欺④空想話
繁栄の神学者はこんなことを言います。
- 現在豪華でぜいたくな暮らしは、信仰深いクリスチャンの権利。
- 自分の物質主義的な生き方に、キリストを引き合いに出す。-イエスだって物質的な生活を送っていたではないか、という理論を持ち出す。
- 苦しみや失望といった問題を取り扱うことは困難。ー現実世界には苦しみがある、ということを放置しています。
- 多くの教会員は、証をすることが出来ない。-今ある恵みが単に「多くの献金」に由来するものだとしたら、その他の教会員の物質的状況を、証しすることが出来なくなります。
- 献金を捧げる者だけが、富みにも健康にも恵まれる。
- 多くの教会員の物質的状況は、神の祝福を反映するものではない。
- 繁栄の神学の原理を適用すれば、日常生活の問題を回避できる。
- 豊かさや物質的な祝福が、悪いものとして捉えられる。-良くないのは物質主義です。仕事を通して得られた物質的な恵み、それ自体を否定してはいけません。
繁栄の神学を説く人たちは、聖書の文脈を無視します。
自分の考えを正当化しようとして、都合の良い聖書箇所だけを探して解釈しようとする、間違った読み方なのです。
繁栄の神学詐欺⑤神ではなく人間の教え
彼らは独自のテキストを使って説明をしようとします。ここまでくると、完全にカルトですね。
- 独自のテキストを頻繁に使って教える。
- 有名(メガ・チャーチ)の牧師、説教者、リバイバリスト(「◎◎先生が~」)
- 積極的告白-自分の夢や願望を心に描き、積極的に口で告白すれば願いは叶えられる。
- リック・ウォレン-キリスト教にイスラム教を混合した。エキュメニズム、マーケティングによる教会形成
- チョー・ヨンギ-『霊的次元』について学び、夢を実現化する積極的な姿勢を継続的に持つ、という教義
- ロバート・シェラー、ノーマン・ビンセント・ピール 等
その実を見れば、彼らが間違っていることは明らかです。
チョー・ヨンギは一代で大教会を作りましたが、私物化し、愛人なども作り、挙句の果てに逮捕されました。
祝福に満ちた神①
神が人へ:自らの恵み(恩寵)を授けること
人が人へ:神の恵みを他者と分かち合うこと
賜物、和解、感謝も動詞バラクで、289回出てきます。
祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、こうなのであって、私はその福音をゆだねられたのです。
Ⅰテモテ1:11
人が作り出すものは違います。
祝福に満ちた神②神の祝福が生命の大前提
アダムとエバ、ノアとその子孫、アブラハムとその子孫(ヤコブ、ヨセフ)、そしてヤベツにも(私を大いに祝福して下さい)。
神への信頼により、私たちもアブラハムの子孫です。
神の祝福を受けていない人はいないのです。
神の祝福から完全に切り離される場所、そこがゲヘナです。
祝福に満ちた神③神は必要をご存じ
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
マタイ6:32
何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などは「異邦人」が切に求めているものです。
だから、神の支配とその義(救い)とを他の全てに優先して求め続けなさい。。そうすれば、
マタイ6:33(私訳)それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
願い求める前から、求めなくてもいいのです。主は、私たちの必要を全て知って下さっています。
祝福に満ちた神④~⑤イエスにある祝福
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
エペソ1:4~14
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、
みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、
時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。
この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。
それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。
この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。
聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。
ここは、時が満ちたら実現するみこころ(預言)の奥義が知らされています。
携挙とはいっさいのものがキリストにあて、一つに集められることです。私たちは御国を受け継ぐものとなったのです。
その祝福の保証が、聖霊です。
繁栄の神学詐欺⑦ラオ・ディケイア教会の教えの詐欺
ラオディキアの教会は豊かになりました。乏しいものは何もない状況になったのですが、それはみ言葉によるのではなく、民衆+習慣=物的繁栄を目指す繁栄の神学がはびこっていたのです。
あなたは、自分では富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
黙示録3:17
この様な教会を、主は「あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。黙示録3:16」と言われています。
熱心な奉仕、熱烈な祈り、熱狂的な賛美はただの高揚でした。
宣言した言葉が実現する!というのはイエス・キリストを利用しているだけで、実は欲望が神になっている状態たのです。
祝福に満ちた神⑥あなたの感情は関係ない
イエス・キリストを抜きにした教え、活動、自己満足に意味はありません。
それはただの、自己満足です。
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
黙示録3:20
祝福に満ちた神⑦この世界をご覧になる神のこころ
また、群集を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。
マタイ9:36
群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている(苦しめられている)のを見て、彼らを可哀想に(=内臓・腸に恋い焦がれるような思いを持つ)思われました。
イエスは、舟から上がられると、多くの群集をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。
マルコ6:34
主は、私たちに熱いか冷たいかであって欲しいと望まれています。
自分の思いではなく、神がどう思われているかに従うことです。それは、イエスのみ心でもあるのです。
※より詳しい音声、動画はこちらより。パスワードは webcha です。
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