皆さん、新年何か、聖句を選ばれたことはありますか?私は毎年その年の聖句を選んで、家の壁とかに貼って、毎日目にするようにしているんですね。
大体がリビングとトイレです。1日に何度も目にしますから。
今年選んだ聖句は2つあって、1つはヨシュア記1章の9節からです。
わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。
ヨシュア1:9
ヨシュアをご存知ですか?
旧約聖書の人物で、モーセに仕えていました。ヨシュアはエジプトを脱出した100万人以上のイスラエル人の中で、カレブとたった2人だけ、約束の地に入れた人です。
モーセが律法代表なら、ヨシュアは信仰代表といった人でした。この『強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。』は良く出てくる聖句ですが、今日のメッセージはここからではないんです。
私は去年9月くらいから、JBEで定期的にメッセージをさせて頂くようになりました。
そこで今年の年間聖句として与えられた、もう1か所の聖句、Ⅱテモテ2:15を皆さんとシェアさせて頂きたいと思います。
あなたは務めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。
Ⅱテモテ2:15
テモテの手紙第二 とは
このⅡテモテの手紙というのは、パウロ最後の手紙と言われています。AD66~67頃に書かれました。
ローマで二度目に捕らえられて、獄中からエフェソにいるテモテに出したので、獄中書簡と呼ばれたりします。処刑される前に書かれた手紙で、よくテトスやテモテの手紙第一とセットで考えられます。
先の2通は確かに若いリーダーに具体的に集会を引っ張って行くノウハウ、集会内の秩序などを教えていますけれども、この第二テモテはどちらかというと、遺言状のような雰囲気です。
受け取ったテモテは、この手紙を何度読み返したことか・・・と思います。
パウロは『使徒の働き』を読むと、ローマで1~2年自由を得るんですが、皇帝ネロの前で弁明をしました。でもそれは失敗に終わって、2回目の弁明のとき、死刑に定められます。
3章でパウロは『私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。』と言っています。
パウロにとって「世を去る」、という意味
この世を去るというのは、元々は『テントの杭を抜く』という意味です。
地上での体はテント、幕屋なんですね。Ⅱコリント5章では、私たちの体は幕屋だと言っていますから、パウロは常に、地上にいる間のこの体は仮住まいとして、主のみもとに住む方が良いと、そう言っています。
この手紙はエペソの集会の牧者である、若いテモテへ指示を出して、また励ましているという内容です。
テモテという人
テモテという名は、「神をあがめる」という意味があります。
パウロからは「同労者」、「スネルゴス」συνεργόςと呼ばれています。これは神の御国のために共に働く者のことで、「協力者」を意味します。
今、ご一緒に読んでいる使徒の働きには、テモテがルステラ出身でパウロの第一伝道旅行の時にイエス・キリストを信じたことが分かります。祖母ロイス、母ユニケもクリスチャンですから、まだ幼いテモテの所を、パウロが訪ねた可能性もあります。
パウロはテモテを第二伝道旅行、第三伝道旅行にも連れて行っています。
晩年ローマに捕らえられている時も、テモテが一緒にいたことが獄中書簡に記録されています。
テモテにはパウロのような強いリーダーシップ、カリスマ性は感じられません。むしろ繊細だったのではないかと思います。
パウロが『神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。Ⅱテモテ1:7』と励ましているように、内気で、目立つことを好まないような印象です。
またⅠテモテ5:23には『これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のために、少量のぶどう酒を用いなさい。』と具体的にアドバイスしています。
テモテはストレスに弱いというか、考え込んでお腹を壊すとか、そういうタイプだったのではないでしょうか?
原文からテモテの手紙第二、二章十五節を訳す
第三版と、新改訳2017年度版の訳を見比べると以下のようになっています。
あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。
新改訳第三版 Ⅱテモテ2:15
あなたは務めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。
新改訳2017年版 Ⅱテモテ2:15
努め励みなさい:スポウダゾー σπουδάζω(アオリスト命令形)勤勉に学びなさい、研究しなさい
熟練した者:エルガテース ἐργάτης;教師
私訳したものは以下です。みことばを語る責任を感じ、更に身の引き締まる思いがします。
真理のみことば とは
当時、今もそうですけれど、偽教師が沢山いました。
その中にあって、真理のみことばを「まっすぐに説き明か」さないといけません。説き明かすためにはまず、 しっかりそれを知らないといけません。
真理というのは、混ぜ物なし、100%真実、ということばなんですが、真理のみことばというのは何でしょうか。パウロは別の箇所で、これを福音として書いています。
真理のことばというのは『人に救いを与えるもの』です。イエスを救い主として信頼した瞬間に、証印を押される、そういうものです。
してはいけない聖書の伝え方
みことばと、人の思いとか、みことばと、現代の習慣とか、そういうのを混ぜて伝えては絶対にいけないんです。間違いなく伝えないと意味がないんです。
話す人というのは聖書そのものを説き明かして、聞かれる方は聖書そのもののメッセージを聞く、という風に出来ればいいなと(そして出来れば皆さんが眠たくならないようにも、出来ればいいなと)思うわけです。
聖書がこう言っているから、といいつつ、実は自分の言いたいことを聖書で補てんしているだけというのは、クリスチャンがよくやってしまいがちなことです。聖書から教えるというのと、聖書を教えるのは大きな違いがあります。
聖書という、神から頂いた詳細な設計図があります。
その図面通りに神の体を建てあげる、そのお手伝いをするのです。造ってみて、ちょっと図面とは違うけどまぁいいか、というのでは『熟練した者』、『務めにふさわしいと認められる人』とは言えません。
大黒柱をまっすぐに立てるように、真理のみことばをまっすぐに説き明かす事は、とても大事で、責任重大だなと思いました。
聖書の説き明かし方
まっすぐに説き明かすという言葉は新約聖書ではここにしか使われていない言葉なんですが、旧約聖書では2か所あります。
ここで使われている「まっすぐにされる」と 「平らにし」が「まっすぐに説き明かす」ということばと同じです。
つまり、みことばを「まっすぐに説き明かす」なら、ただ語るだけではなく、その人の、また聞く人の歩みに、しっかり現われてくるのです。
パウロを生涯悩ませていた問題の1つ
それは、「間違った教え」です。
「私の福音」とパウロが言う、教えから逸脱する者たちへの警戒が、パウロの書いた書簡すべてに流れる問題でもあります。異なる教えに対する排除が、時間も空間も越えた所で、一時的ではない、重大な関心事だったのです。
という事はここは若いリーダー、テモテにだけ言っているのではなく、パウロは現代の私たちに向けてもメッセージを送っていると考えられます。
3章で、パウロが厳しい言葉で非難している人たちがいます。
ヤンネとヤンブレというのは、モーセがアロンと一緒にエジプトのパロのところに行き、色々な不思議と奇蹟を行なったときに登場した、魔術師たちです。
彼らはモーセがやったように、杖を蛇に変えたり、ナイル河を血に変えるというような事をやってみせて、彼らの方はまがい物だったんですが、パロの心を頑なにしてしまいました。
こんな凄い奇跡は神以外出来るわけがないのに、真理のまがい物を作って、見える部分だけを敬虔にするのです。
1%違っても人は躓きます。時にはその1%に傷つきます。すると、1%のまがい物のために本物を一切捨ててしまう事もあるのです。
「彼らは知性の腐った、信仰の失格者」、とは随分厳しい言い方ですが、パウロがⅡコリント13章で書いた、通称「愛の賛歌」と呼ばれる部分を読んでみると、なぜ彼らをこう呼ぶのか分かります。
パウロが不正を憎む理由
「(愛は)不正を喜ばずに真理を喜びます。」ここです。パウロは愛ゆえに、不正を喜ばないのです。
キリストの体に不正が1%でも宿った時、そこからカビのように不正が広がってしまう、そこにいる人たちを破滅させてしまうので、パウロは主の集会に集う人たちの中で、間違った行いをしている人、間違った考えを広めようとしている人に、厳しい口調で非難しているのです。
例えば使徒の働きや、ガラテヤ書にも出てくる「割礼派」などは、一見正当なことを言っているようにも聞こえますが、実際はイエス・キリストの十字架を台無しにしているのです。
パウロの思い
あなたは務めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。
Ⅱテモテ2:15
パウロはこのⅡテモテ2:15で、先々週のメッセージ「本当の礼拝」でお話したように、自分を神に献げよう!とテモテに提案しています。
「あなたも私のように、神が喜んで下さるように、自分を聖なる献げものとして日々努めようじゃないか」と。
当時の集会には今の私たちが想像するよりも、色々な人が集っていたと思います。間違った教えを広めたり、それで離れていく人もいたでしょう。
パウロも自分自身の弱さ、罪深さを知っていました。
朝に聖人であった人が夕べに悪人になることもあるでしょうし、肉体を持つ者として、何が起こるか分からないことを、同じ人間として理解していました。
病気を治そうと、病人の中に飛び込んでいく人というのは、自分もいつ同じ病に倒れてもおかしくない人です。何でもあり得るのです。
人に、自分に絶望していたらキリがないでしょう。
しかし何があっても揺らがないように、真理の御言葉に立って、まっすぐにこれを説き明かす人となるように。そして自分の真実ではなく、主の真実により頼むようにともパウロは教えています。
パウロは以下の真理にしがみつくようにも教えています。
私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。
Ⅱテモテ2:13
自分に信頼することは危険です。
つねに真実である方から目を離さないこと、これが大事なんですね。
私はパウロがくれた警告、励ましを胸に、み言葉を説き明かしていきたいと思います。皆さんもぜひ、ご自分の『今年の聖句』を見つけられて心に留めておくことをお勧めします。
例えば放蕩息子のたとえ話から、「お父さん、財産の半分を下さい」でもいいんです。それが自分に示された御言葉かなと思えば、それを握って生活することです。
キリストのみ言葉を拠り所として、1年を歩んでいきたいと思います。
※より詳しい音声と画像はこちらより。パスワードはwebcha です。
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