新約聖書、ルカの10章25節から37節には、「どうしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」と聞く律法の専門家と、彼に『善きサマリア人』の例え話で返されるイエス様のやり取りが出て来ます。
英語でもGood Samaritansという言葉になっている程、この例え話は有名です。
正しいこととは何でしょうか。
私たちにとっての隣人(となりびと)とは誰のことでしょうか。
さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
ルカ10:25~28
イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
これはルカの中でも有名な箇所です。
律法の専門家が、イエスを「先生(ラビ)」と呼んだのは、実際そう思って尊敬して呼んだのでしょうか?それとも嫌みでしょうか。イエスもかなり素っ気ない返答をしています。
答えにくい問い、答えにくい解答
小学校では国語の授業、中・高になると現代文の授業で色々な作家の作品を読む機会があります。
高校生の現文には、教科書により多少の違いはありますが、芥川龍之介の羅生門、中島敦の山月記、夏目漱石のこころ、斉藤茂吉や石川啄木の短歌等が入っているようで、私が高校生だった頃と大して変わっていないんだなという印象を受けます。
色々なタイプの作家の作品を読めるという点はとても良いのですが、授業、あるいは試験で一番難しい問題が、「この時の◎◎の気持ちを考えましょう」とか「なぜ作者はこう書いたのだと思いますか」というのではなかったでしょうか?!
ある作家は自分の小説で作られた問題に答えて、間違えたそうです。ましてや、我々読者が作者の気持ちを考えるなんて?!
一方、私の通っていた学校には幸いなことに「道徳」の授業はありませんでしたが、道徳という場合はこういう問題が想定されると思います。
「何が正しいでしょうか」
子供のころ、こんな質問をされなくて本当に良かったと思います。
そもそも、「あなたはどう読んでいますか」という答えからして、この質疑でイエスは最初からこの律法の専門家にまともに応対していない気がします。
もちろん、読めばわかる、という質問は確かに在るのですが・・・。
模範解答!申命記6章4節~9節
聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。
申命記6章4節~9節
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。
これをあなたの子供たちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも、道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。
これをしるしとして自分の手に結び付け、記章として額の上に置きなさい。
これをあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい。
律法の専門家が引用した、この「心を尽くし、いのちを尽くし~」という聖句は申命記の6章4節から9節にあって、ユダヤ人が1番くらいに大事にする聖句です。
誰でも知っている箇所を出して、イエスを試したような感じすらします。
それに対してイエスも、「書いてあるでしょ、知ってるよね、じゃあそうしたら。」という風な、身もふたもない答えをしています。
ユダヤ人は、זוּזָה məzūzāhメズーサーという、自分の家やシナゴーグの入り口にこの礼拝文を入れた箱を設置して、出入りの度に触って祈るそうです。箱には「聞け」という意味のヘブライ語「シェマー」の最初の語、シンが書かれている場合も多いです。
この律法の専門家はとっさにイエスに食い下がります。
しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
ルカ10:29
ああ言えばこう言うタイプですね。
イエスはもう彼に正面から答えず、例え話を使って話されます。それがこの有名な「善きサマリア人」、英語だとGood Samaritansです。
善きサマリア人のたとえ話
この短い例え話の内容は以下です。
ある人がエルサレムからエリコへ行く途中強盗に襲われ、着物まで取られて半殺しの目にあった。
たまたま祭司が通りかかったが彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。レビ人も同じように反対側を通り過ぎて行った。
ところが、旅をしていたサマリア人は可哀そうに思って、傷の手当てをして宿屋に連れて行ってやり、次の日、宿の主人にお金まで払って介抱してやってくれと頼んだ。
以上です。
イエスはこの話をし、律法学者に「だれが強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」と聞くのです。
何だか道徳の授業みたいで、答えはもう決まっています。「サマリア人です」と答えたくなかったのでしょうか、律法の専門家は「その人にあわれみ深い行いをした人です」と答えるのですが、イエスは間髪入れず「あなたも行って同じようにしなさい」と言います。
「永遠のいのちを得るためにはどうしたらいいか」と言ってくる学者に対して、かなり冷淡に応えている感じがします。そう言われても、この例え話の中にでてくる司祭やレビ人には、サマリア人と同じようにできない理由がありました。
律法的に正しい人
そうです、この時点で正しい人、つまり律法的に正しい人は、実は祭司とレビ人なのです。
祭司は神殿での仕事をする重要な責任があって、何が何でも穢れるわけにはいきませんでした。彼らは、血に触れたり死体に触れたりしては絶対にいけなかったので、親戚の葬式にすら出られなかったそうです。
レビ人も、祭司の手伝いで神殿で働く人たちだったので、同じように穢れてはいけませんでした。
ある意味この2人は律法的に正しい行いをしているのです。
サマリア人とは
サマリア人は、ユダヤ人からは汚れた人種と見下されていた人たち。
右下の地図にあるようにAD740年代頃、アッシリアへの捕囚があった時に移民させられてきた人たちと、もともと住んでいたイスラエルの民は混血してしまいました。だから純粋ではない。神の祝福を受けられなくなってしまった人々として蔑視して、すぐ隣に住んでいるにもかかわらず、話しもしなければ、その土地も通りもしませんでした。
北イスラエルの人たちは、アレクサンドロスの時代にゲリジム山に作った神殿で礼拝するようになり、南ユダの人たちは、エルサレムで礼拝していました。2つの神殿があったのです。
イエス様がお生まれになる120年位前、二つの国の間に、大きな事件が起きました。ユダヤの祭司であり王、ヨハネ・ヒルカノスがサマリヤに攻め上り、ゲリジム山にあるサマリヤ人たちの神殿を破壊し、サマリヤ人たちを大勢殺したのです。
ヒルカノスは元々一つだった国を、ユダヤ教で統一しようとして武力を用いましたが、勿論失敗しました。
現在サマリアは「ヨルダン川西岸地区」と呼ばれ、アラブ人たちの自治区となっています。少数ですがサマリア人たちも住んでいます。イスラエル・ヨルダン・パレスチナ自治区のパスポートを持つため、物流の仕事についている人も多いそうです。
イエスの時代も、サマリヤ人たちはユダヤ人のすぐ隣に住んでいたのですが、当時、コンクリートの壁はなくても、民族的な壁はすでに存在していました。
イスラエル人とサマリア人、民族感情は?
歴史を見ていくと、この当時のそれぞれの民族感情がどうであったのか、大体想像がつきます。サマリヤ人はユダヤ人を本当に憎んでいたでしょうし、ユダヤ人もサマリヤ人を軽蔑していて、大きな対立があったでしょう。
「サマリア人」とは本来サマリアに住んでいる人を指して使われる言葉でしたが、次第に、相手が誰であろうと関係なく軽蔑して言う時に使われるようになりました。
『善きサマリア人』のたとえ話にイエスが込めたもの
正しいことをしようとしている人、律法を順守している人に対しての皮肉、さらに、サマリア人の方がユダヤ人よりも優れている、正しいことをしているように例えたので、ユダヤ人側は怒り心頭だったでしょう。
対比を大きくする効果とはいえ、助けたのがサマリア人ではなく一般のユダヤ人ではダメだったのでしょうか。
イエスに質問した人も、普段は”正しいこと”を教える立場だったと思います。
そういう人に対して、正しいあまりに、人一人も救えないという正しさに、「そんなこと何の意味があるんだよ」という意味を込められたと思います。
これは反感以上に、当時は神への冒涜と映ったとしても仕方ありません。何しろ律法は神から頂いたものです。その律法を守った祭司やレビ人が、サマリア人よりも低められているのですから、こうした発言がゆくゆくは十字架を招く結果となって行きます。
イエスは、隣人を愛しなさいと命じられているのなら、それを目の前の人に実行したらいいんじゃないかと言われているのです。
これは正解のない問いです。
道徳の授業のように、「この場合正しいのはどちらでしょう」なんて言えないのです。
これはイエスの私たちに対する問いかけでもあります。あなたなら、こんな時どうしますか。
※音声と動画はこちらから。パスワードは webcha です。
ネット環境が悪く、たまに音声が途切れます。
コメント