ルツはユダヤ人ではありません。呪われていると言われていたモアブ人でした。
しかし今まで慣れ親しんだ場所、習慣、家族や神からも離れ、まことの神、イスラエルの神に従った結果、本人も思いの寄らない神の導きと祝福に預かることになります。
今回学ぶルツ記2章には、ユダヤ人の有力者ボアズとの出会いが描かれています。
ボアズとの出会いが決して偶然ではなかったこと、ボアズの厚意に見られる主の恵みについて、皆さんとご一緒に学んでみたいと思います。
七週の祭り
もともとは小麦の収穫を喜ぶ刈り入れの祭り、収穫祭でした。
のちに、出エジプトから49日後、シナイ山で神が律法を与えて下さったことを記念する祭りになっていきました。1日のみで、過越しの祭りの2日目から50日後となります。
クリスチャンたちにとっては同じ日が五旬節といい、ペンテコステ、使徒たちに聖霊が下った日です。
この日にユダヤ人はルツ記を読むそうです。
ユダヤ教徒がこの日にルツ記を読む理由
モアブの女ルツがイスラエルの娘たちよりも優れている、素晴らしい信仰だと褒められているのは驚くことなのです。
ヨナ(ヨナ書)でさえ、ニネベの人たちが神に立ち返って罰を免れた時、「生きるよりも死ぬ方がましだ」とすねて怒りました。これは選民意識の表れなのです。
ユダヤ教のラビに、この日にルツ記が読まれるわけを聞いたところ、彼は以下の様に話していました。
①季節が同じである
「⼤⻨の刈り⼊れと⼩⻨の刈り⼊れが終わるまで落ち穂を拾い集めた」(ルツ記 2:23)ここからも分かるように、ルツ記の出来事は刈り入れの季節の約50⽇のことでした。
過越の祭りの3日目に初穂の祭り(大麦の初穂を主に捧げる)が行われるので、時期は4月くらい。ちょうど七週の祭りの時期の話なのです。
②ルツはダビデ王の曾祖母である。
ユダヤ教徒にとって、もちろんクリスチャンにとっても偉大な人、ダビデの系図に連なる大事な女性です。
これらの理由でルツ記を読むのだそうです。
ルツ記に隠された預言
彼らユダヤ人がどんな理由でルツ記を読もうが、この中にはとても預言的な内容が書かれています。
なぜなら、異邦人代表のルツとユダヤ人代表のボアズの一体化が見られるからです。
異邦人とユダヤ人の一体化を使徒パウロのいう「新しいひとりの人」(One New Man, エペソ書2:15)という概念によって捉えているメシアニックジューの方もいます。
モアブとは
次に、ルツの出身地モアブについて見ていきましょう。
モアブ:姦淫を意味。
地名のもとになったモアブは、ロトと彼の娘の一人との近親相姦の関係で生まれました。(創世記19:31~38)姉がモアブ人の祖モアブを、妹がアンモン人の祖、ベン・アミを生んだのです。
また、荒野でイスラエルの民に異教の神を拝ませたのはモアブの民でした。(民数記25章)そのため、神はイスラエルの民がモアブ人の女と結婚することをお許しになりませんでした。(Ⅱ列王記11:2)
輝かしいダビデ王のルーツに、モアブ人の女性を系図の中に持っているというショッキングな事実が書かれているのです。
ここから分かるのは、神の恵みと祝福は血筋によらないということです。
国籍にもよりません。
私たちが拘りがちな「血筋」「国籍」というのはただの偶像です。
現代日本ならば、自分の先祖は◎◎だった。。こういう人は救われないんじゃないか・・・そういう風に考えることです。しかし、神の救いは何にもに縛られることなく、全ての人に及ぶのです。
ルツ記2章
モアブの女ルツはナオミに言った。「畑に行かせてください。そして、親切にしてくれる人のうしろで落ち穂を拾い集めさせてください。」ナオミは、「娘よ、行っておいで」と言った。
ルツ記2:2
ルツは異邦人なので、畑で他の使用人、娘たち、落ち穂を拾っているユダヤ人からいじめられる可能性もありました。2:22でナオミが「ほかの畑でいじめられなくてすみます。」と言っていることからもそれが分かります。
ルツはそれでも出かけていきます。
ここで当時のイスラエルの弱者救済制度、「落ち穂拾い」のことを説明します。
落ち穂拾い
①レビ19:9〜10、23:22、申24:19
②貧しい者(やもめなど)と在留異国人のための規定です。(エジプトでの奴隷生活を思い出す)
③収穫に際して、畑の隅々まで刈ってはなりません。少し残しておくのです。
④(畑の持ち主が)落ち穂を拾い集めること、畑に忘れた束を取りに戻ることなども禁止されていました。
⑤この規定はオリーブやぶどうにも適用されました。
このように、落ちた物を困窮している人たちが拾って生活して良い、むしろ拾わせてあげなさいという律法があったのです。この時代は女性が一人で生きていくのはとても大変だったことがうかがえます。
子供がいれば養って貰えるでしょうが、ナオミやルツのように男性の保護者がいなくなってしまった女性たちは(実際に多かったと思います)、落ち穂を拾って暮らしていました。
ボアズとは
ボアズという名前は「力ある者」という意味です。
イエスもイザヤ書9:6で「力ある神」と書かれています。ボアズの、ルツに向ける厚意の大きさからも、彼がイエス・キリストの型であると読んで良いと思います。
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
イザヤ9:6
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその型にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
ボアズはルツに、普通だったら考えられないほどの恵みを与えてくれるのですが、ユダヤ人の伝承では当時ボアズ80歳、ルツは40歳とされているので、この時点でボアズに恋心や結婚したいという思いがあったわけではないでしょう。
彼はなぜ、ルツにそこまで良くしたのか、ここを読むと分かります。
ボアズはルツが自分の生まれ故郷を離れ、今までの自分の環境を全て捨ててナオミについて来たこと、そのいきさつを詳しく聞いていました。そして強いられたわけでもなく、心から姑のナオミのために朝から晩まで働いているのです。
ルツは主ご自身に向き合った。イスラエルの神をを自分の主としたのだということが分かっているので、ボアズはルツを誉め、色々な誘惑やいじめからも守りました。
神はどのような者でも、ご自身の翼の下に避け所を求めて来る者を豊かに報いてくださるのです。
はからずも!
それははからずも、エリメレク(ナオミの亡夫)の一族に属するボアズの畑だった。
ルツ記2:3
はからずも、のヘブライ語の語源は”神が取り計らう”という意味です。
全てが神の御手の中にあることと関連している言葉で、これを「摂理」といいます。
世の中は、何か偶然で出来たものだ、とか偶然の出会い、偶然のチャンス!そういったものを有難がる、または何か超自然的な力が働いているのではないかと思う、そういう風潮がありますが、そうではありません。
偶然と言うのは進化論に通じます。偶然の積み重ねが進化なのですが、この理屈で考えると、すべての存在には意味がなくなってしまいます。
私たちは偶然で出来たのではありません。
この時のルツとボアズがそうであったように、まだ見えなくとも、私たち一人一人に神様のご計画があるのです。
ボアズの厚意から「神の恵み」を見る
「どうして私に親切にし、気遣ってくれるのですか。私はよそ者ですのに」
ルツ記2:10
ルツは戸惑います。彼女は、自分が恵みに値しない存在だということを十分分かっていました。
しかし、「恵み」とは本来受けるに値しないことを受けることを言うのです。
聖書には「報い」と言う言葉もあります。
報いとは良い意味に使うこともありますが、基本的に行いや対価に応じて与えられるものです。無条件で与えられる恵みとは、全く逆なのです。
日本人が「恵み」を受け取るのが下手だそうです。ただで何かを貰うのは駅前のティッシュ位で、もらい慣れていないのでしょう。
自分が頑張らなければ!と考えたり、思った通りに事が運ばないと「自分に問題がある」と考えがちです。
恵みはそうではありません。
恵みの始まり
”恵み”は、エデンの園で神がアダムとエバの罪をおおうために動物(おそらく羊)を殺されたときに始まりました。(創世記3:21)
神はアダムとイブをすぐに滅ぼしてしまうことも出来たのです。ですが代わりに、彼らが神と正しい関係に戻るための方法を選ばれました。
その恵のパターンは旧約聖書を通して今も続いています。
恵みとは
最も大きな宝物を、最も価値のない者(つまり私たちすべて)に、ただで与えてくださることです。これが恵みなのです。
まとめ
ルツは自分のものを全てを失いました、または置いてきました。夫も無く子供もいない、現代以上に何の保証もない状態です。
しかしナオミの信じるイスラエルの神についてきただけでなく、ナオミに従順に使える姿を通して、神に仕えました。
その結果、主から慰めを頂いて、さらにボアズの行動を通して、必要を全て備えられて守られたのです。
イエス・キリストを信じるということはそういうことでしょう。
イエスを信じるということは、自分においては死ぬことです。
難しい表現ですが、「自我に死ぬ」というのは「神に委ねて生きる」ということではないでしょうか。神の思いに満たされて生きるのです。
そうすれば本当に必要なもの、必要な導きを主から得ることが出来ます。
イエス・キリストに従っていきましょう。
※詳しい音声と動画はこちらより。パスワードは webcha です。
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