2月13日:聖書の終末預言⑧ 啓示録1章4節~

メッセージ

最後の預言書は「黙示」ではなく「啓示」であって、隠されていたことが啓かれ明らかにされています。
難解とされる中に、誤訳があり、私たちの先入観が邪魔をしていることがあります。

 終わりの時が間近に迫っている現在、困難な時代となっているからこそ、この書を学ぶ意味があります。
神が約束し与えようとしている祝福を是非とも、受け取ってください。できる限りわかりやすく説明できるように心がけますので、共に学んでみましょう!

※動画と音声はこちらから。

ヨハネから、アシアにある七つのエクレーシアへ。常に存在し、存在され、来られる方からの恵みと平安が、あなた方にありますように!そして、神の御座の前にいます七つの御霊からも。

啓示録1:4(拙訳)

このアシアは、アジアとも訳されていますが、アジア大陸の事ではなく、トルコ西部の小アジアのことを指しています。
エクレーシアと、メッセージ中で訳した「教会」ですが、教会だと”教える会、組織、建物、制度”という印象を持たないでしょうか?教会とはこのようなものではありません。

3世紀~4世紀初めに、イエス・キリストの名のもとに人の集まり、群れが出来始めました。
それをエクレーシア(集まり、群)という風に呼んだのです。
ἐκκλησίαとギリシャ語で書きますが、これは”~から”を意味するἐκ(エク)と、”呼び出す”と意味するκαλεω(カレオー)が合わさって出来た言葉です。
私たちは「呼び出された者」なのです。
新約聖書では115箇所使われていますが、全て『教会』と訳されてしまっています。

エクレーシアとは

もう一度あなたがたに言います。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でもなんでも、地上で一致して願がうなら、天におられるわたしの父から発して、あなたがたにそれが実現するでしょう。
というのは、ふたりか三人が一緒に、わたしの名の中に集まる所には、彼らの中心にわたしはいるからです。」

マタイ18:19~20(拙訳)

ギリシャ語εἰς(エイス)は~の中へという意味です。
ですので『イエス・キリストの名の元へ、あるいは中へ』という意味があります。
教会とありますが、決して建物のイメージではないのです。

常に存在し、存在され、来られる方

ヘブライ語で神の名はיהוהと表します。英語だとYHVHです。
発音はあえて伏せられ、エホバなのかヤハウェなのかハッキリ分かりません。分かるのは、時間を超え、偏在される永遠の神だということです。

主の名前をヘブライ語の文法から詳しく見てみましょう。

יהיה →イヒィエ It will be…の「will be」未来に
הווה →ホヴェ It is…の「is」 現在に
היה  →ハヤ It was…の「was」 過去に

これらの頭文字をとります。

יהיה →イヒィエ It will be…の「will be」未来に
הווה →ホヴェ It is…の「is」 現在に
היה  →ハヤ It was…の「was」 過去に

そして組み立てると、יהוה 「現在、過去、未来」すべてにおいて存在する神。となるのです。
当時のギリシャ人は、”ヤハウェ”に近い発音をしていたようです。日本の初期の聖書、文語体の聖書は『エホバ』となっています。

一方イエスはこう紹介してくださいました。

私たちの天の父

マタイ6:9

このようにお呼びになっています。皆さんも、こうして天のお父さんに呼び掛けて祈っているでしょうか?

旧約と新約で、ガラッと変わる神?

ある方は、旧約聖書ではとても激しい神様で、新約聖書になると、愛と慈悲の神様になるような気がする。本当の神様ってどんな方なんだろう?と言われました。

イエスはヨハネの福音書で「わたしと父とは一つです(ヨハネ10:30)」と言われました。
多くの方が、イエス・キリストを通して神の愛を知ります。その後で旧約聖書の神を知ってびっくりしてしまうんですが、その父なる神とご自分とは一つだ、本質的(霊と心において)には一緒(同一の存在)なのだと言われるのです。

更にイエスはヨハネ14章でこうも言われます。

もし、わたしを知っていたなら、父も知っていた

ヨハネ14:7a

知っていた、と訳されている部分は、ギノースコーγινώσκω=(確実に)理解する。(過去完了形)が使われています。

すなわち、今からあなたがたは、父を知り現在形)また、見た完了)のです。

ヨハネ14:7b

とても興味深い表現です。
イエスを見た人は父を見た、というのです。イエスの周りには弟子もいました。
父をさせてください!という所にはアオリストという、ギリシャ語独特の自制が使われています。1度見たらその”見た”という状態がずーっと続くような、そんな強い願望を感じる自制です。

わたしをた(完了形)ものは、父をた(完了形)のです。

ヨハネ14:9b

わたしが父におり、父がわたしにおられる

ヨハネ14:10a 11a

ひとつ、一体と言われているのです。別のお方ではありません。

恵みと平安があなたがたにありますように

恵み、それは受けるに値しない、資格のない者が受ける神の愛、ひいき、神のあふれる好意をさします。
ギリシャ語ではカリスχαρις、新約聖書には155箇所出てくる言葉です。
ヘブライ語ではヘーンחֵןといって、身分の低い者に対して親切にする、身をかがめる。といった、選ばれる価値のない者神によって選ばれたことを表しています。

当然呪われるべき私たち…ですが、そんな私たちに対して、呪いの代わりに祝福が選択されるのです。

人類史は、実は神の恵みの連続です。
アダムとエバの罪を覆うため、羊を殺されました(創世記3:21)。滅ぼす代わりに、彼らが神へ立ち返る道を備えられました。
旧約;神は罪人の罪を贖うために、血潮の生贄の規定
赦しは神の究極の恵みなのです。

救いの結果、もたらされた神との関係

恵み平安があなたがたにありますように。
平安はヘブライ語でシャロームשָׁלוֹםと言い、平和の源、『イエスの平安、平和(ヨハネ14:27)』が表されていると思います。
イエスは「私の平安をあなたがたに与える」と言われました。

私たちの
祈りは「平和」です。(Ⅰペテロ3:11)
関係は「平和」です。(ローマ12:18)
求めることは「平和や互いの向上に役立つこと」(ローマ14:19)
目指す神の国は「聖霊による義と平和の喜び」(ローマ14:17)

啓示録1:4に書かれている「います」は単数形です。
七つの御霊、恐らく七重の御霊ということだとも思いますが、「7」は聖書中でも完全豊かな満たし(充足)を表します。

霊を見分ける

この世は霊が支配しています。しかも、それはサタン側の霊です。
サタン、堕天使ども、悪霊。そして精霊、邪悪な霊、惑わす霊の支配から、カルト、偽教会集会、偽教派教団、占い師などが出てきます。
これらと相反する位置におられるのが「聖霊なる神」です。

七つの霊についてイザヤ書11:2ではこう言っています。
主の霊、知恵の霊、悟りの霊、はかりごとの霊、能力の霊、主を知る知識の霊、主を恐れる霊。
創世記2章を見てみましょう。ギリシャ的に訳すとこうです。

 神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

創世記2:16~17

主人と奴隷のような縛りが、この言葉からは感じられます。「ねばならない」です。
しかし実際はこういう訳でしょう。

 神ヤハウェは人に命じて仰せられた。「あなたは、園のすべての木から食べる
しかし、善悪の知識の木からは取って食べない。それを取って食べる日に、まさにその日にあなたは死ぬから。」

創世記2:16~17(拙訳)

この言葉は、父親が子供に期待している、そういった感じなのです。
ねばならぬ!という主従関係を押し付けるような、そういう書き方はされていません。

ヘブライ語はとても自由な自制で、完了形と未完了形のみです。
たとえば出エジプト記20:13~17にある十戒ですが、これも殺してはならない、ではなく『殺さない』。姦淫してはならない、ではなく『姦淫しない』という表現です。

ヘレニズム、西洋文化のギリシャ人的なキリスト教ではなく、実はヘブライズム、東洋文化や思想の入った言葉なのです。ここには、信頼期待が感じられます。

その名は何ですか?

אֶֽהְיֶ֖ה אֲשֶׁ֣ר אֶֽהְיֶ֑ה エヒエ・アシェル・エヒエ
ヨハネ8:58でイエスはこう言われました。この部分が実際どういう意味であるのか多くの学者がこれまで研究を重ねてきました。
私は存在する神だ、とかわたしはわたしだ、とか色々な解釈があります。

…「まことに、まことにあなたがたに言います。アブラハムが存在するようになる前から、『わたしは存在している』

ヨハネ8:58(拙訳)

私は存在している、と日本語で読むと普通かも知れません。これはギリシャ語のἐγὼ εἰμί(エゴー・エイミ)と同じです。
通常のギリシャ語は日本語と同じで、『私は』という主語をあまり使いません。ですが、あえてエゴーを使うと、「私が」という風に、自身を強調する表現になります。
エヒエ・アシェル・エヒエと同じように、イエスはこれを使われました。
ゲッセマネの園にご自分を捕まえに来たローマ兵たちに「私だ」と言われた時、彼らはのけ反って倒れました。

父なる神も、御子イエスも、同じ存在であり同じ権威を持たれたお方です。
それがこの啓示録1:4に表されているのではないでしょうか。ぜひ、皆さんこの祝福を受け取ってください。

神は皆さんを祝福したくてたまらないのです。
良いものを与えようとされています。そして、神は時間を超えるお方です。
新約聖書で読んだこと、旧約聖書で読んだこと、それを過去のことだと受け取らないでください。
イエス・キリストは今も存在し、そして「わたしは存在している」と言われます。聖書に書かれている言葉は、今も昔も同じように有効なのです。
私たちに、約束をもって臨んでいます
そこに希望をもって読むとき、必ず実現するのです。

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