ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。
Ⅰ歴代誌4:10
今回は、”私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。”までメッセージさせて頂きたいと思います。
ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。
この呼ばわる、というのは「祈る」という意味です。
創世記41:43、45章では同じ言葉を「叫んだ」と訳しています。
兄弟たちに妬まれ、エジプトへ売られてしまったヨセフが、そこで大出世をしました。
そしてその後、7年間続いた飢饉の為エジプトに食料を買いに来ていた兄弟たちに、自分のことを打ち明けるのですが、感極まって人払いをします。
その時のセリフです。
現在、世界三大偽宗教が集まって祈りが捧げられている場所があります。
エルサレムです。
反キリストがエキュメニズム、世界統一宗教の中心地を神殿の丘に決めて、ユダヤ人とアラブ人が共に礼拝をすることになったら、それはもう凄いことです。
でもこれは、必ずこれから起こります。聖書に書いてあるんですから。
私たちはヨハネの手紙で、御父と御子を否定する者、イエスがメシアだということを否定する者が反キリストであると分かります。
もう実際に起こりつつあります。
信仰の違いを超えた礼拝も行われていますし、コロナによって世界中が不安定になっています。誰も自分の国の政府を信用していません。
皆が、新しいシステムで統治してくれる新しいリーダーを望むような気持ちになっているのではないでしょうか。反キリストを迎えるには、この様に、国家や人々が不安定になる必要があるのです。
私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。
ヤベツの祈りに戻ります。
この”地境を広げる”を、文字通り、自分の個人的な領土が大きくなるようにという祈りだとすると、主に従っているイスラエルの民にしては、ちょっと不自然です。
なぜかというと、ヘブル人にとって土地は全て神のもので、自分の土地と言っても、神から決められた土地を任されているという感覚でした。
譲渡する場合でも律法にのっとって行わないといけないし、基本的には『地境を移してはならない』のです。
あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地のうち、あなたの受け継ぐ相続地で、あなたは、先代の人々の定めた隣人との地境を移してはならない。
申命記19:14
イスラエル人の相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人は、おのおのその父祖の部族の相続地を堅く守らなければならないからである。
民数記36:7-9
イスラエル人の部族のうち、相続地を受け継ぐ娘はみな、その父の部族に属する氏族のひとりにとつがなければならない。イスラエル人が、おのおのその父祖の相続地を受け継ぐためである。
こうして相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人の部族はおのおのその相続地を堅く守らなければならないからである。』」
だから、Ⅰ列王記21:2-3で北イスラエルの王アハブが、ナボテに「あなたのぶどう畑を私に譲ってもらいたい」と言った時に、王の申し出にも拘らず「主によって、私には、ありえないことです。私の先祖のゆずりの地をあなたに与えるとは。」とナボテが断ったのは、こういう理由があるからです。
それ相応の対価を銀で払おうと言っているんですが、ナボテは断るのです。
ヤベツの願ったこと
ヤベツは何を願ったのか・・・。祝福して欲しい!!これです。
日本は幸いな場所に位置しています。
最近は夏が暑すぎ、雨も降り過ぎますけれど、四季があり、海流に囲まれて、土地からも海からも自然の多くの恵みが来る。
何かあって自然が荒ぶることがあっても、それでも自然に任せていれば、いつかまた自然から良い物が来る、というのがクリスチャンであっても日本人の、昔からの考え方ではないかと思うんです。
でもヘブル人にとって祝福は自然にやって来ないし、いのちだって求めなければ自然にやって来ないのです。
祝福を願った時、ヤベツはただ求めて求めて、求めただけではないと思います。祝福を受けた人には、どう生きるべきかも伝えられるのです。(マタイ25:32-34)
ヤベツには『主の示される生き方に従います!』という思いも、当然あったでしょう。
ヤベツの求めた『祝福』とは何か
イエスは、手を洗わないで食事をすることがあっても、祝福して、感謝の祈りを捧げずに食べることはされませんでした。
パリサイ人の儀式的手洗いとは違います。
「食前に手を洗わないと、神さまの祝福を失って貧しくなる」とか、「食事する場所に水がないなら、何キロ歩いてでも水のある所に行き、手を洗え」とか教えるラビもいました。あるラビは、「手を洗わないで食事をすると、手にくっついていた悪霊を体内に入れることになり、取り憑かれる」とさえ言っています。
極端ですね。
イエスは律法を完全に守っておられましたが、言い伝えに関しては無視したり、反対の事をされたりしていました。
山上の垂訓(マタイ5:3-11、ルカ)でイエスは、とても「祝福」だとは思えないような状況を祝福だと言われています。
幸いと訳されているのはギリシャ語の「マカリオス(単数形)」で、「1. 最高に祝福される、2. さびない健康、3. 思いもよらない恵み」という意味があるんです。
なぜ一見そうとは見えないようなことが、祝福なんでしょうか…それは、イエス・キリストによって全てが変えられるからです。
自分では絶対になしえないこと。「悲しみ、苦しみ」というような名前を付けられてしまった自分の運命、人生そのものを全く変えたかったんです。
不可能です。でも、主に在っては不可能ではないことを信じて祈りました。
祝福は求めなくても、向こうから勝手にやって来る、と考えている人の生き方は、そういう人生でしょう。
祝福に、手を伸ばそう!
「神様が十字架に掛かって、全ての人の罪を赦してくれたのなら、もういいじゃないんですか?私に何かする必要があるんですか?」と質問してくれた方がいます。
あるんです!
イエスが十字架に掛かって、その血潮で罪の一切を支払って下さったという祝福は、私たち全員の前に差し出されています。
だから、手を伸ばして受け取るんです。
例えるなら、搭乗チケットです。私のも、あなたのも、全員分のチケットは用意されています。チケットを持たずに天の御国行の飛行機には乗れません。
その祝福のチケットを下さい!と手を伸ばすことが必要ですよね。
どうぞ祝福して下さい!その祝福を下さい!あなたに従いたい!と祈る時、主は必ず祝福して下さいます。
ハンナの祈り
最後にⅠサムエルでサムエルのお母さん、ハンナが祈った時の事をご紹介します。
彼女は心の中で叫びつつ祈っていました。
ハンナが主の前で長く祈っている間、エリはその口もとを見守っていた。
Ⅰサムエル1:12-16
ハンナは心のうちで祈っていたので、くちびるが動くだけで、その声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのではないかと思った。
エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」
ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。
このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」
ヤベツと同じように、ハンナも毎年毎年供え物を携えてシロの宮(まだ神殿はエルサレムではなく、シロにありました)に来ては、祈っていました。
>私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。
この姿に、祈りは信頼、そして忍耐だと思わされます。
「不可能を可能にして下さる主に信頼して」、と私たちは祈りの時によく言いますが、それを心の底から信じているでしょうか。自分で、主の力に制限を設けていないでしょうか?
ヤベツのように自分の人生をかけて、ハンナのように心を注ぎだして、主の前に出ましょう。
主は聞いてくださっています。
※より詳しい音声と動画は YOUTUBE よりご覧ください。
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