今年は4月4日がご復活でした。
神の御子であるイエス様が私たちの代わりに、負うべき罪の一切を背負って下さり、十字架に掛かって下さったお蔭で、私たちが、神の子供となることが出来たのです。
私たちがイエス・キリストに信頼した時、新しく生まれ変わり、新しい名前で呼ばれるようになります。
それは、「神の子」です。
ピラトの心境
イエスが、裁判とも言えないような裁判を受けている時、”出来れば彼を解放したい、何故ならこの人は無実なんだから・・・”と考えている人がいました。
総督ピラトです。
それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」
マタイ27:17-18
ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。
しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
マタイ27:21-23
ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」
だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ」と叫び続けた。
2度にわたって「誰を釈放して欲しいのか」と聞いています。
ピラトは相当不思議に思ったと思います。
これは、死刑にするほどの危険人物でもなければ、ローマの法律に違反するような罪も見つけられないぞと、そう思ったでしょう。
マルコ15:4-14、ルカ23:3-22、そしてヨハネの19:12にも『 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。』とあります。
十字架刑は、そのあまりの残酷さに、ローマ市民に対しては執行されない刑でした。
ピラトは、何の罪も見いだせない男に対して、石打ちならまだしも「十字架につけろ」と叫ぶ民衆の様子を見て、不安になったと思います。
そうだ!あの男を使おう!!
ピラトがイエスをどうにかして釈放したいと思った時、いい案が浮かびました。慣習的に、祭りのときには民衆の望む犯人を1人だけ釈放することにしていたので、当時、シキーム、シキム人と呼ばれていたテロリストで殺人犯のバラバとイエスを比較することにしたのです。
盲人の目を開き、足萎えを立たせ、少女を生き返らせ、ツァラアトを清める、愛の人を赦すのか。
それともあの極悪人バル・アバスを赦すのか、考えるまでもなく前者だろう!とピラトは思ったと思います。
バラバは”名の知れた囚人”(マタイ27:16)だったと書いてあります。
新約聖書では”熱心党”と書かれている人たちの仲間でしたが、歴史家のヨセフスが調べたところによると、熱心党は宗教という名に隠れて、殺人やテロ行為をしていました。
ヨセフスは、このシキム人たちが同胞のユダヤ人に対してやったことは、ローマ人がした事よりも遥かに残酷で酷かったと書き残しています。
バラバ、この名前はヘブライ語ではなく、当時話されていたアラム語です。
バル・アバス בר-אבאこれはイエスがシモン・ペテロのことを「バル・ヨナ・シモン」ヨナの子シモンと呼ばれたように、「Abbasの子」つまり、「父の子」という意味なのです。
バラバとは誰か
私たちが新生した時、新しい名前で呼ばれるようになる、と言いました。
そうです、私たち一人一人がバル・アバス、御父の子になるのです。
バラバは私たちです。
本当の御父の子に対して、人々は「この人を除け。バラバを釈放しろ。」(ルカ23:18)と叫びました。
そして罪のないイエスが、私たちの罪の代わりに十字架で死んで下さった。だから私たちは御父の子になれたのです。
本来なら、誰が代わりにいたとしても釈放されることは無かったであろう極悪人、バラバは、無罪であったイエスが代わりに処刑されることによって、無罪放免されました。
恵みとは、『最も大きな宝物を、それを最も受ける価値のない者(つまり私たちすべて)に、ただで与えてくださること。』だと、去年ルツ記の2章をご一緒に学んだ際にお話ししました。
バラバも、そして私たちも、イエスの十字架によって罪の一切を買い取られました。
エマオへの道の同行者
ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。
ルカ24:13-16
そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった
この弟子二人が歩いていたのは、イエスが十字架に掛かって死なれた日から三日目、週の初めの日でした。女性たちが空の墓を発見して、ペテロが走って行って確認したら、亜麻布だけがそこに残っていたという日です。
そして、ここでイエスに会った2人の弟子のうち、クレオパという方が、「何を話しているのですか」と問うイエスに、「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけがしらなかったのですか。」と、答えるのです。
「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。
ルカ24:19-20
自分のことを理解していない弟子たちに、イエスが何と言われたか、覚えていますか?
聖書全体が大事だという事が分かります。
たまに、「私たちは新約の時代にいるのだから、もう旧約聖書は必要ないんじゃないか」と言われる方がいます。誰でも自分のお気に入りの聖句があり、子供でさえもお気に入りの話しがあったりします。
でも、それは全体ではありません。
聖書には、イエスが、文字として表されています。
聖書を徹底的に説き明かすイエス
モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体、というのは、創世記・出エジプト記・レビ・民数記・申命記のモーセ五書と、ネヴィイームと呼ばれるすべての預言書と、その他旧約聖書の全てという意味です。
ルカ24:27にある「説き明かされた」という言葉は、「徹底的に説明する」「オープンにする」という意味です。32節もそうです。
ここで注目したいのは、イエスは確実に弟子たちと共にいるのですが、弟子たちはそれに気付かなかったという事です。
もう、この弟子たちが誰を象徴しているのかお分かりだと思います。
それは、私たちです。
イエスは彼らをその他大勢から選んだのです。そして、それからずっと一緒に歩き続けているんです。
でも、弟子たちはどうだったでしょうか?
聖書を理解しておらず、イエスとともに歩んでいるという事実さえ掴めず、イエスのことが見えず、言っていることも聞こえていないという状態でしたが、イエスは弟子たちと共に歩んでいました。
でも、弟子たちは、イエスとともに歩んでいなかったのです。
私たちは、イエスと共に歩んでいるだろうか
イエスが私たちと共におられることは確かです。疑う余地もありません。
問題は、私たちがどれだけイエスと一緒にいるのか、ということです。
祈るとき、私たちは神に話しかけます。色々言いたいことを何でも打ち明けて良いのです。ですが、聖書を開くとき、神は私たちに話しかけておられます。
コミュニケーションというのは、一方通行ではないのです。
イエスは食事をされました
イエスがご自分を明らかにされたのは、一緒に食事をしている時だったというのがポイントです。
彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
ルカ24:30-31
それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。
ヨハネ21:12-13
イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
聖書の中で、誰かが生き返った後に食事をしたと書いてあるのは、それが文字通り起こったという事実を示すためです。以下の3つの聖句もその例です。
イエスは、このことをだれにもしらせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた
マルコ5:43
人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
ヨハネ12:2
それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。
ルカ24:41-43
それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、
イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。
エホバの証人は、復活は肉体上の出来事ではないと教えていますが、霊だったら食べる必要はありません。イエスが食事をされたという事は、イエスが肉体を持って復活されたという事を示しています。
イエスを呼び止めてください
そしてイエスは実は、もっと先へ行かれようとしているようでした。弟子たちはそこでイエスを呼び止めるのです。
彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。それで、彼らが、「いっしょにお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。
ルカ24:28-29
私たちこう言わなければなりません。
「一緒に泊まって下さい」「もっと話を聞かせてください」「もっと説明して下さい」「もっと聖書を聞かせてください」
黙示録3:20で、イエスが戸を叩くという箇所があります。ラオデキヤの教会へ書かれた部分です。
イエスを招き入れましょう
ラオデキヤの人たちは安心していました。
あなたは、自分では富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
黙示録3:17
イエスは安心しきっている私たちに言われています。
自分が霊的に裸で、自分の状況を理解していない。豊かになった、ということが、祝福の物差しでしょうか?
確かに豊かさは祝福かも知れません。
でも、祝福のバロメーターではありません。
殉教の道以外、受け取るものが無い、そういう状況で、今現在も迫害されている多くのクリスチャンたちがいるのです。でも彼らは祝福に満ちています。
イエスは言われています。
一緒に食事をしよう、一緒に話しをしよう。そして、本当に見なさい。本当に聞きなさい、悟りなさい。
まとめ
バラバの話しをしました。
イエスの十字架によって、受ける価値のない大きな恵みを頂いて、いのちを得たバル・アバス、父の子と呼ばれるようになったのは、私たちです。
エマオへの道を歩いている弟子たち、彼らも私たちです。
共に歩いているのに、話しているのに、見えずに聞こえていませんでした。バラバのために死なれたイエスは、その後私たちのために復活されました。
私たちはそのイエスの復活の中に生きているでしょうか。
イエスはいつでも私を見て下さっていますが、私はイエスを見ているだろうか?
イエスがいつでも私の声を聞いて下さっていますが、私は聞いているだろうか?聖書を説明して下さっている時、私は本当に聞いているだろうか?
ぜひイエス様を引きとめて、招き入れて、一緒に食事をし、話を聞きましょう。
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